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黄土高原史話<10>中国の臍(へそ)はどこだろう by谷口義介

 10年ほど前、上海で聞いた話に、若者の間ではやっているのはキョンキョンと工藤静香とか。今はおそらくビンチー・ブーこと浜崎歩(あゆみ)。折しも今秋は日中国交正常化30周年とて、その認定事業の北京コンサートでは、さぞかし人工的メイクアップとヘソ出しルックが、かの地のファンを魅了したことでしょう(もちろん歌も)。
 私事ながら、「近江は日本のヘソ」と滋賀県人(だけ?)は信じています。
 では、中国のヘソはどこか。
 現在でいえば、南北大動脈の京広鉄路(北京―広州)と長江水運(重慶―上海)が交差するので、湖北省の武漢が最有力候補。土地の人は「九省通衢」といって自慢しますが、同省が境を接しているのは実は6省。「九」は基数の最大数ゆえ「多い」という意味もありますから、さしずめ「すべての道は武漢に通ず」といったところでしょう。
 しかし歴史的にみると、中国のヘソは河南省の洛陽。ただし、北宋が当時物流の中心地となった開封に都を定める以前の唐代まで。
 「中国最古“幻の王朝”夏は実在」「四千年前の城跡を発掘・河南省」「出土品など有力根拠」「始祖・禹の王城の可能性」「中国誌が発表」。
 今から20年ほど前、釧路でソバ屋をやっている友人が、83年3月30日付「北海道新聞」をわざわざ送ってくれました。もちろん、同じような大活字が全国紙の一面トップにも。
 20世紀初め、それまで伝説とされてきた殷(商)王朝(B.C.1600~1055年頃)の実在が、甲骨文の発見や殷墟の発掘によって証明されてから、中国の古代史・考古学界の関心は、もっぱらその前の夏王朝に向かいます。時へて、雑誌『文物』83 年3期号は2本の論文を掲載、河南省の登封県王城崗遺跡こそ夏王朝の都、とほぼ断定。洛陽の東南50キロに当ります。これとは別に、偃師県二里頭遺跡で検出された宮殿址を夏時代の王宮とする見方もありますが、これも洛陽の東25キロ。
 ワタクシ的には、もともと夏族の本拠は山西省南西部、汾水下流の東側、崇山西麓に広がる襄汾県陶寺遺跡(B.C.2400~1900年頃)で、その勢力がB.C.2000年頃、洛陽周辺のどこかに進出して都を建てた、と考えています。
 この夏王朝のあと、殷が偃師商城を築き、西周が副都として洛邑を造営、東周になって首都とし、とんで後漢・曹魏・西晋が都を構え、北魏が大同から遷り、隋・唐が東都として重視したのも、この地が豊かな農耕地であるうえ、四通八達する交通の要衝だったから。天下に号令するためには、洛陽を抑えなければなりません。
 ちなみに、洛陽盆地を囲む南の伏牛山脈から東の嵩山あたりまで、黄土高原に入ります。
(緑の地球88号(2002年11月発行)掲載分)

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