黄土高原史話<61>北の大地の百万都市(上)by 谷口義介
いま大同の市中の人口は100 万と。では、北魏時代の大同つまり平城は?
「大規模かつ強制的な移民政策によって10 以上の民族が遠方からも集められ、平城の人口はまもなく100万人を突破し、中国最大の都市になったといわれる。」(GEN『中国黄土高原における緑化協力』2005 年、13 ページ)
戦国時代最大の斉の臨湽(山東省)の城内人口が35 万、華の都・唐の長安
が最盛期で100 万、南宋の臨安(杭州)が近郊も含め120 万、元朝が首都にした大都(北京)が100 万人。北魏が遷都したあとの洛陽(河南省)は70 万くらい。これらに比して、寒冷・荒蕪な北辺の地に人口100 万の巨大都市とは、にわかに信じ難い数字です。
ところが、諸資料に当ってみると、あながち根拠なきにしも非ず。
のち北魏王朝を建てることになる鮮卑(せんぴ)族拓跋(たくばつ)部が大同盆地に入ったのは、307 年、中央政権・晋によって拓跋猗盧(いろ)(295 ~ 317)が代公に封じられたから。このとき10 万戸が大同盆地を含む長城以南に移っているが、1 戸(1 家)= 5口(5 人)とみるのが中国史の常識ゆえ、人口にして50 万ということに。このあと代王什翼犍(じゅうよくけん)(338 ~ 376)のとき戦士が数十万といわれ、次の拓跋珪(たくばつけい)(386~ 409)は、396 年、40 余万を従えて出征している。すなわち4 世紀末、拓跋部が掌握した総人口は、大同盆地に限っていうと、少な目にみて50 万以上。
そして、これに各地からの強制移民が加わります。
いま李凭『北魏平城時代』(社会科学文献出版社、2000年)によって拓跋珪、つまり北魏の初代道武帝期に平城とその周辺に移された人数をみると、
(1)391 年12 月 300 余家
不明から馬邑へ
(2)396 年6 月 不明
広寧から平城へ
(3)398 年1 月 46 万余口
山東6 州から平城などへ
(4)同年 不明
中山から平城などへ
(5)同年7 月 不明
盛楽から平城とその周辺へ
(6)同年12 月 2000 家
山東6 州から平城へ
(7)399 年2 月 7 万余口
漠北から平城へ
(8)同上 2 万余口
漠北から平城へ
(9)402 年2 月 不明
安定の高平から平城へ
つまり道武帝の時代、大同盆地には拓跋部の基礎人口と同じくらいの移民
があったわけで、首都平城とその郊外の人口は優に100 万に達していたと考
えてよいだろう。
このうち(3)の46 万余口の内訳は、「山東六州の民・夷」と「徒何・高麗の雑夷」で「三十六万」、「百工・伎巧」が「十万余口」。これらをもって「京師(=都)をし」、その2 月、「内徙の新民に耕牛を給(たま)ひ、口を計りて田を受(さづ)」けた(『魏書』太祖紀)。国家財政の基本を牧畜から農業にシフトしたわけだが、職人・技術者の方は宮殿建設・都市造りに奉仕させた。
「秋七月、都を平城に遷す。始めて宮室を営み、宗廟を建て、社稷を立つ。」
「十二月、帝は天文殿に臨み、太尉・司徒は璽綬(じじゅ)を進め、百官は咸(み)な万歳を称す。」
つまり拓跋珪は中華王朝風の皇帝となったわけで、即位儀礼を行なった天
文殿のあと、太廟が造られた。さらに中天殿・雲母殿・金華殿・紫極殿・玄
武楼・涼風観などが建てられ、四面の城壁には12 の門も開かれた。天子の都
城にふさわしい偉容といってよいだろう。
(「緑の地球」149号 2013年1月掲載)