東條慎生『後藤明生の夢 朝鮮引揚者(エグザイル)の〈方法〉』序章「私という喜劇」全文公開
序章 私という喜劇―後藤明生の「小説」
後藤明生という作家がいる。一九六〇年代に登場した阿部昭、黒井千次、坂上弘、古井由吉などとともに「内向の世代」と呼ばれた一人だけれども、芥川賞候補には何度か挙げられながら受賞はせず、ある時期までは新刊で入手できるのが一、二冊だけだったという、いわばマイナーな作家だ。
没後二十年を数えた現在、それでもここで後藤明生を論じようとするのは、この作家の書き残したものにはいまだ新鮮な方法意識と、いまだ汲み取られていないものがあるからだ。
後藤明生は日本の現代文学において、小説とは何かというジャンル論、方法論をもっとも精力的に考えた作家の一人だろう。いわく、「笑い」、「楕円」、「喜劇」、「超ジャンル」、「混血=分裂」、「千円札文学論」等々、さまざまなキーワードで語られるその論考は、明快かつ原理的で、その実践とも言える奇妙な小説ともども、初めて読んだ当時大学生だった筆者の小説観をほとんど一変させるものだった。
後藤明生は、一般的に想定される小説のスタイルをどこまでも外していくことで、逆説的に小説とは何かを問い返しつつ、そのズレ、脱線、飛躍、パロディの語りという「笑い」によって世界と自己のあり方を問い直していった。そして日本近代文学の果敢な読み直しとともに、朝鮮引揚者としての目から土地、都市、日本を読み直してきた。「私」を、「小説」を、「日本文学」を、そして「日本」を考えるとき、後藤明生の視点は今なおインパクトを与える。
後藤明生の思考においてことに重要なモチーフに「喜劇」がある。「私が相手を笑うことができるのならば、相手も私を笑うことができる」という自己と他者の関係の相対性を意味し、「神」という絶対者がいない世界ではそれぞれの存在は対等に置かれるほかない、という近代世界の構造をも指している。後藤にとっての「笑い」とは、ユーモアを指すのではなく、世界のありようを把握し表現する方法のことだ。一つの中心をもつ円ではなく、「二つの中心」をもつ楕円を世界把握の原理とする後藤の「楕円」も、ここから出てくる(数学的に正しくいえば楕円は二つの「焦点」からなるけれども本書では後藤の用法に倣う)。後藤の「関係」や「笑い地獄」といった小説はその実践だった。そして近代小説の祖と呼ばれる『ドン・キホーテ』について、小説とはセルバンテス以来、この世界の喜劇性をこそ表現したジャンルだとする後藤の小説観には、筆者も大きな影響を受けた。
この認識論と同時に、きわめて具体的な小説論として重要なのが、「千円札文学論」だ。文学、ことに小説と呼ばれるものは、ある天才の個性と才能によって書かれ、人間の内面や思想を深く掘り下げるものであり、またそうあるべきだ――という考えは、現在も一般的に根強いだろう。しかし作品の創造性を、作家独自の発想と霊感による「オリジナル」に由来するものとみなす観念は、作家の独創性を必要以上に強調する結果を生む。
後藤はこの発想を徹底して批判する。たとえば大学で創作をしたいという学生に対して、「何故、小説を書くのか?」と後藤は問う。
旧千円札には夏目漱石の肖像が描かれていたけれども、いかに文豪といえども表だけでは贋札にすぎない、読むことと書くことの表裏が一体になってこそ文学だ、という「千円札文学論」を主張した一節だ。小説を書くのは、小説を読んだからだ――という理屈は、あまりに身も蓋もない。しかし先行する作品を読み、そこから方法を受け取り、なにがしかの形で変形させて小説はつねに書かれる、とする「模倣=批評」という後藤流の小説論は、この考えを基盤にしている。優れた作品は天才による突出した独創性によって書かれるのではなく、つねに先行する作品を意識したなかから生まれる、という連続性を強調するわけだ。
そしてじっさい、後藤の小説、特に八〇年代以後のものは、具体的に様々なテクスト――文学や歴史に限らないさまざまな文章を読み込む過程がそのまま小説となった特異な形式を持っている。ドストエフスキーからゴーゴリ、カフカのみならず、生き返った永井荷風「本人」を相手に原稿用紙にして千七百枚をこえる大著のおよそ半分を費やして荷風論を戦わせる異色作『壁の中』をはじめ、住み始めた土地を歩き回り、そこにまつわる歴史や文学作品をたどるテクスト散策が展開される『首塚の上のアドバルーン』や『しんとく問答』などを代表とする後期作品は、この「読むことで書かれる小説」という理論の堂々たる実作だ。
後藤明生の小説は、実験的で難解なものだと思われただろうか? 確かに後藤は「日本のヌーヴォー・ロマン」と呼ばれることもあるものの、文章自体はきわめて平明で簡潔、非常に読みやすい。ところが難解なところなどないのに、作品としてはきわめて不可解。この笑うしかないような奇妙さが後藤明生の面白さだ。おそらく多くの人は、後藤明生の小説を読んで、「これははたして小説なのか」と思うことだろう。しかし「これこそが小説だ」というのが後藤の返答だ。このような小説を通して、「文学」への先入観を徹底して突き崩していく笑いが、後藤の真骨頂なのだ。
そしてこの、小説は常にある別の作品を参照し、取り込んで変形していくという原理を文学史にまで広げ、日本近代文学もまた西洋文学を模倣し批評しながら書かれてきたとする、「混血=分裂」の様相における読み換えの作業が、八〇年代以後の大きなテーマとなっていった。
小説とは何か、という問いは「喜劇としての世界」という大きな問題と同時に「私とは何か」を問うものでもある。後藤明生は「楕円」から「混血=分裂」にいたる小説理論を通してこのことを小説において語ってきた。書くことにおいて読むことが重要なのは、読むという行為がつねに他者の言葉を取り込むことで自分を「混血=分裂」させていく営為だからだ。そして読むことと書くことの表裏一体によって文学が成立するという考えの核心には、読み、書く主体たる「私」がある。「私」があるテクストを読み、自身の内に取り込むことで、それまでつくられてきた経験からテクストを解釈し、あるいはテクストによって生まれた新たな認識が私のなかにかたちづくられる。この私と他者の言葉の混血、それこそが新たなテクストの誕生を促す。この時、それを読む「私」も、既にそれ以前から「混血」を経てきた存在だということが含意されている。「私」とはそれまで読み聞きしてきた膨大な他者の言葉によって作られた存在にほかならない。そもそも言語自体が他人の言葉の模倣によって習得するほかない以上、この混血性は根源的なものだといえる。
後藤明生の代表作として衆目の一致する長篇『挾み撃ち』は、この「私」と「世界」の交差するポイントにおいて書かれている。そしてこの長篇の最深部にこそ、朝鮮引揚者としての体験が存在している。朝鮮や引揚げの経験は、デビュー作から晩年にいたるまで後藤のテクストの至るところに書き込まれており、後藤を理解するには無視できないだけではなく、八〇年前後で大きくその姿を変える作家的変遷をたどる上でも重要な意味がある。
面白くも謎めいて不可思議な後藤明生の小説に、「引揚げ」という軸を通すことで見えてくるものがある。現在、著作権継承者自身が立ち上げたアーリーバード・ブックスによる電子書籍選集の刊行、国書刊行会の『後藤明生コレクション』全五巻、また、つかだま書房によって対談・座談集をはじめ、『壁の中』『引揚小説三部作』や『笑いの方法』『小説は何処から来たか』など重要な作品が復刊され、著作の入手が没後の一時期に比べかなり容易になったけれども、いまだに後藤明生の全体像を俯瞰した論考はない。本書は、後藤明生案内ともなるよう主要な作品をたどりつつ、「引揚げ」という観点からその全体像を明らかにすることを目指している。
後藤は笑いのうちに自身の分裂、世界の「とつぜん」さを肯定する。それでいながら、私を、文学を、日本人を、日本を、純粋な一個の確たる存在だとする固定観念に対し、その混血性・分裂性を探り出し、再構築していく。絶対性のなかに相対性を見いだしていくこの営為をこそ「笑い」と呼ぶのではないか。後藤明生を読むということは、小説を、文学を、日本を新たな目で見直しながら、朝鮮と日本の関係、私と他者との言葉の関係を探り直し、位置づけ直す営為ともなる。この普遍的な原理において後藤明生はつねに読まれ、読み直される存在であり続けるはずだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。この続きはぜひ、東條慎生『後藤明生の夢 朝鮮引揚者(エグザイル)の〈方法〉』をご覧ください。