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東條慎生『後藤明生の夢 朝鮮引揚者(エグザイル)の〈方法〉』序章「私という喜劇」全文公開

 2022年9月29日、幻戯書房は東條慎生著『後藤明生の夢 朝鮮引揚者(エグザイル)の〈方法〉』を刊行いたします。
 ちょうど十年前、小社では〈後藤明生・生誕80年記念企画〉として、生前未刊行だった大長篇小説この人を見よを初めて書籍化しました。未完だったこともあり、作中の多くの謎が残ったままではあるものの、予想をはるかに超えた多くの読者や評者に迎えられ、その後の「後藤明生リバイバル」と呼ばれる一連のムーヴメントを惹起する契機ともなりました。
 それから十年。今回刊行する本書は、この作家の「方法」の由来と全体像を、長年研究してきた著者がポストコロニアルの文脈から読み解いた、後藤明生に関する初の長篇評論です。
 独自の理論と実作によって日本/文学と生涯にわたり格闘し、読み/書くことの「自由」を体現し、現代日本語小説界に多くの読者を生み出してきた作家・後藤明生。彼は、一体どのような問題に囚われていたのか? 
 今回公開するのは、本書の「序章」にあたる部分です。没後20年以上を経た現在、あらためて後藤明生を読みなおす意味とは何か――?

序章 私という喜劇―後藤明生の「小説」

 後藤明生という作家がいる。一九六〇年代に登場した阿部昭、黒井千次、坂上弘、古井由吉などとともに「内向の世代」と呼ばれた一人だけれども、芥川賞候補には何度か挙げられながら受賞はせず、ある時期までは新刊で入手できるのが一、二冊だけだったという、いわばマイナーな作家だ。

 没後二十年を数えた現在、それでもここで後藤明生を論じようとするのは、この作家の書き残したものにはいまだ新鮮な方法意識と、いまだ汲み取られていないものがあるからだ。

 後藤明生は日本の現代文学において、小説とは何かというジャンル論、方法論をもっとも精力的に考えた作家の一人だろう。いわく、「笑い」、「楕円」、「喜劇」、「超ジャンル」、「混血=分裂」、「千円札文学論」等々、さまざまなキーワードで語られるその論考は、明快かつ原理的で、その実践とも言える奇妙な小説ともども、初めて読んだ当時大学生だった筆者の小説観をほとんど一変させるものだった。

 後藤明生は、一般的に想定される小説のスタイルをどこまでも外していくことで、逆説的に小説とは何かを問い返しつつ、そのズレ、脱線、飛躍、パロディの語りという「笑い」によって世界と自己のあり方を問い直していった。そして日本近代文学の果敢な読み直しとともに、朝鮮引揚者としての目から土地、都市、日本を読み直してきた。「私」を、「小説」を、「日本文学」を、そして「日本」を考えるとき、後藤明生の視点は今なおインパクトを与える。

 後藤明生の思考においてことに重要なモチーフに「喜劇」がある。「私が相手を笑うことができるのならば、相手も私を笑うことができる」という自己と他者の関係の相対性を意味し、「神」という絶対者がいない世界ではそれぞれの存在は対等に置かれるほかない、という近代世界の構造をも指している。後藤にとっての「笑い」とは、ユーモアを指すのではなく、世界のありようを把握し表現する方法のことだ。一つの中心をもつ円ではなく、「二つの中心」をもつ楕円を世界把握の原理とする後藤の「楕円」も、ここから出てくる(数学的に正しくいえば楕円は二つの「焦点」からなるけれども本書では後藤の用法に倣う)。後藤の「関係」や「笑い地獄」といった小説はその実践だった。そして近代小説の祖と呼ばれる『ドン・キホーテ』について、小説とはセルバンテス以来、この世界の喜劇性をこそ表現したジャンルだとする後藤の小説観には、筆者も大きな影響を受けた。

 この認識論と同時に、きわめて具体的な小説論として重要なのが、「千円札文学論」だ。文学、ことに小説と呼ばれるものは、ある天才の個性と才能によって書かれ、人間の内面や思想を深く掘り下げるものであり、またそうあるべきだ――という考えは、現在も一般的に根強いだろう。しかし作品の創造性を、作家独自の発想と霊感による「オリジナル」に由来するものとみなす観念は、作家の独創性を必要以上に強調する結果を生む。

 後藤はこの発想を徹底して批判する。たとえば大学で創作をしたいという学生に対して、「何故、小説を書くのか?」と後藤は問う。

すると学生は一瞬、ケゲンな顔をします。つまり自分は小説を書きたいから書くのだ、ということなのです。自分の感覚、想像力、衝動を小説に書きたいから書くのだ、ということなのです。それ以上の理由は不要ではないか。それはよくわかる。体験、アイデア、メッセージを表現したい衝動、欲求はよくわかります。ただ、そこで訊ねたいのは、では何故それを小説として書きたいのか、ということです。何故、小説というジャンルを選ぶのか、ということです。他の形式、ジャンルではなくて、どうしても小説でなければならない、というその理由ですが、私の結論はこうです。すなわち、なぜ小説を書くか? それは小説を読んだからである。これが私の小説論の第一原理です。
(「小説の快楽」『小説の快楽』222頁)

 旧千円札には夏目漱石の肖像が描かれていたけれども、いかに文豪といえども表だけでは贋札にすぎない、読むことと書くことの表裏が一体になってこそ文学だ、という「千円札文学論」を主張した一節だ。小説を書くのは、小説を読んだからだ――という理屈は、あまりに身も蓋もない。しかし先行する作品を読み、そこから方法を受け取り、なにがしかの形で変形させて小説はつねに書かれる、とする「模倣=批評」という後藤流の小説論は、この考えを基盤にしている。優れた作品は天才による突出した独創性によって書かれるのではなく、つねに先行する作品を意識したなかから生まれる、という連続性を強調するわけだ。

 そしてじっさい、後藤の小説、特に八〇年代以後のものは、具体的に様々なテクスト――文学や歴史に限らないさまざまな文章を読み込む過程がそのまま小説となった特異な形式を持っている。ドストエフスキーからゴーゴリ、カフカのみならず、生き返った永井荷風「本人」を相手に原稿用紙にして千七百枚をこえる大著のおよそ半分を費やして荷風論を戦わせる異色作『壁の中』をはじめ、住み始めた土地を歩き回り、そこにまつわる歴史や文学作品をたどるテクスト散策が展開される『首塚の上のアドバルーン』や『しんとく問答』などを代表とする後期作品は、この「読むことで書かれる小説」という理論の堂々たる実作だ。

 後藤明生の小説は、実験的で難解なものだと思われただろうか? 確かに後藤は「日本のヌーヴォー・ロマン」と呼ばれることもあるものの、文章自体はきわめて平明で簡潔、非常に読みやすい。ところが難解なところなどないのに、作品としてはきわめて不可解。この笑うしかないような奇妙さが後藤明生の面白さだ。おそらく多くの人は、後藤明生の小説を読んで、「これははたして小説なのか」と思うことだろう。しかし「これこそが小説だ」というのが後藤の返答だ。このような小説を通して、「文学」への先入観を徹底して突き崩していく笑いが、後藤の真骨頂なのだ。

 そしてこの、小説は常にある別の作品を参照し、取り込んで変形していくという原理を文学史にまで広げ、日本近代文学もまた西洋文学を模倣し批評しながら書かれてきたとする、「混血=分裂」の様相における読み換えの作業が、八〇年代以後の大きなテーマとなっていった。

 小説とは何か、という問いは「喜劇としての世界」という大きな問題と同時に「私とは何か」を問うものでもある。後藤明生は「楕円」から「混血=分裂」にいたる小説理論を通してこのことを小説において語ってきた。書くことにおいて読むことが重要なのは、読むという行為がつねに他者の言葉を取り込むことで自分を「混血=分裂」させていく営為だからだ。そして読むことと書くことの表裏一体によって文学が成立するという考えの核心には、読み、書く主体たる「私」がある。「私」があるテクストを読み、自身の内に取り込むことで、それまでつくられてきた経験からテクストを解釈し、あるいはテクストによって生まれた新たな認識が私のなかにかたちづくられる。この私と他者の言葉の混血、それこそが新たなテクストの誕生を促す。この時、それを読む「私」も、既にそれ以前から「混血」を経てきた存在だということが含意されている。「私」とはそれまで読み聞きしてきた膨大な他者の言葉によって作られた存在にほかならない。そもそも言語自体が他人の言葉の模倣によって習得するほかない以上、この混血性は根源的なものだといえる。

 後藤明生の代表作として衆目の一致する長篇『挾み撃ち』は、この「私」と「世界」の交差するポイントにおいて書かれている。そしてこの長篇の最深部にこそ、朝鮮引揚者としての体験が存在している。朝鮮や引揚げの経験は、デビュー作から晩年にいたるまで後藤のテクストの至るところに書き込まれており、後藤を理解するには無視できないだけではなく、八〇年前後で大きくその姿を変える作家的変遷をたどる上でも重要な意味がある。

 面白くも謎めいて不可思議な後藤明生の小説に、「引揚げ」という軸を通すことで見えてくるものがある。現在、著作権継承者自身が立ち上げたアーリーバード・ブックスによる電子書籍選集の刊行、国書刊行会の『後藤明生コレクション』全五巻、また、つかだま書房によって対談・座談集をはじめ、『壁の中』『引揚小説三部作』や『笑いの方法』『小説は何処から来たか』など重要な作品が復刊され、著作の入手が没後の一時期に比べかなり容易になったけれども、いまだに後藤明生の全体像を俯瞰した論考はない。本書は、後藤明生案内ともなるよう主要な作品をたどりつつ、「引揚げ」という観点からその全体像を明らかにすることを目指している。

 後藤は笑いのうちに自身の分裂、世界の「とつぜん」さを肯定する。それでいながら、私を、文学を、日本人を、日本を、純粋な一個の確たる存在だとする固定観念に対し、その混血性・分裂性を探り出し、再構築していく。絶対性のなかに相対性を見いだしていくこの営為をこそ「笑い」と呼ぶのではないか。後藤明生を読むということは、小説を、文学を、日本を新たな目で見直しながら、朝鮮と日本の関係、私と他者との言葉の関係を探り直し、位置づけ直す営為ともなる。この普遍的な原理において後藤明生はつねに読まれ、読み直される存在であり続けるはずだ。

【目次】
序章 私という喜劇――後藤明生の「小説」

第一部 『挾み撃ち』の夢――〈初期〉
第一章 「異邦人」の帰還――初期短篇(日本ポストコロニアル文学の裏面/「赤と黒の記憶」の喪失感/「異邦人」とは誰か/「関係」の多重化される〝関係〟/「無名中尉の息子」の恐怖)
第二章 ガリバーの「格闘」――初期短篇(「わたし」への遡行――「笑い地獄」/記憶喪失の現在――七〇年連作1/健忘症者の戦い――七〇年連作2/漂着と土着――七〇年連作3/「挾み撃ちにされた現代人」)
第三章 「引揚者」の戦後――『挾み撃ち』の夢1(上京の「夢」/「土着」からの拒絶/「挾み撃ち」の戦後)
第四章 「夢」の話法――『挾み撃ち』の夢2(「とつぜん」と「当然」のあいだ/夢の話法/「わたしの『外套』」/『挾み撃ち』のその後)

第二部 失われた朝鮮の父――〈中期〉
第五章 故郷喪失者たちの再会――『思い川』その他と「厄介な問題」について(忘れられた朝鮮語――「虎島」ほか/父を訪ねる旅―『思い川』/故郷喪失者たちの位置――後藤明生、李浩哲、李恢成/「厄介な問題」と「わたしの記憶」)
第六章 引揚者の傷痕――引揚げ三部作1『夢かたり』(「不思議な別世界」――日本人と朝鮮人の境界/民族共存の(悪)夢――映画作家日夏英太郎/引揚者たちの戦後―植民地主義の傷痕/二色刷りの絵)
第七章 それぞれの家/郷――引揚げ三部作2および『使者連作』(今と過去の家/郷―『行き帰り』/「居心地の悪い場所」――『噓のような日常』/死者たちの追悼――『使者連作』)
第八章 「わたし」から「小説」へ――一九七九年・朝倉連作と『吉野大夫』(亡父という呪縛――朝倉連作/「小説」の「小説」――『吉野大夫』/「小説」への問い――方法としての「異説」)

第三部 混血=分裂の近代日本――〈後期〉
第九章 分裂する日本近代と「転向」――『壁の中』(『挾み撃ち』を書き直す/「ゼンキョートー」と『悪霊』――ロシアの百年後の日本/「舶来のマドンナ」――キリスト、マルクス、近代日本の「転向」)
第十章 メタテクストの方法――八〇年代1(汝、隣人ソクラテス――『汝の隣人』1/言葉と愛――『汝の隣人』2/「ふるさとを取り上げられる」――津軽連作『スケープゴート』手紙というメタテクスト――『謎の手紙をめぐる数通の手紙』/「超ジャンル」としての小説)
第十一章 戦・死・墓―後藤明生の〝戦争文学〟・八〇年代2(模倣という戦い――『蜂アカデミーへの報告』/不参戦者の〝戦争〟――『首塚の上のアドバルーン』/失語の危機との闘い――『メメント・モリ―私の食道手術体験』)
第十二章 日本(文学)を分裂させる――九〇年代(文芸学部という場――教師としての後藤明生/志賀直哉・天皇・共産主義――『この人を見よ』/混血=分裂=増殖のメカニズム――『しんとく問答』/「模倣」という方法――『日本近代文学との戦い』/異邦人の見た日本)

終章 自由と呪縛――引揚者という方法

 引用・参照文献
 後藤明生略年譜
 あとがき
 索引
【著者略歴】東條慎生(とうじょう・しんせい)1981年生まれ。ライター。和光大学表現学部卒。「幻視社」サイト内「後藤明生レビュー」を運営。これまでの主な寄稿・参加:「裏切り者と英雄のテーマ 鶴田知也「コシャマイン記」とその前後」(『北の想像力 《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅』寿郎社)、「再演される戦前 アイヌ「民族」否定論について」(『アイヌ民族否定論に抗する』河出書房新社)、紹介「イスマイル・カダレ」(『ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち』青月社)、「解説鼎談(岡和田晃、山城むつみ)」(『骨踊り 向井豊昭小説選』幻戯書房)。
幻視社URL:http://genshisha.g2.xrea.com/

最後までお読みいただき、ありがとうございました。この続きはぜひ、東條慎生『後藤明生の夢 朝鮮引揚者(エグザイル)の〈方法〉』をご覧ください。