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「幼稚園・保育園で歌うべき歌」についての考察。

ちょっと前に、とある幼稚園の先生が、「うちの幼稚園ではスピッツを歌っている」ってことを言っているのを聞いて超絶ビックリしたことがあったんですね。

「幼稚園でスピッツ?なんで?」って。

で、最近、保育士をしている友人が「保育園でブルーハーツを歌っている」ってことを言っていたので、質問と疑問と意見をぶつけさせてもらいながら、自分なりに色々と考えてみたんです。

「なぜ、私は、幼稚園・保育園に通う子供たちが、スピッツやブルーハーツを歌うことに違和感があるのか?」ってことについて。

ちなみに、考える上で、幼稚園や保育園の指導要領的なものは見ていません。

見ようと思ったんですが、実質、それは「答え」であるので、私は答えを知りたいのと同時に、「なぜ、自分は違和感を持ったのか?」ってことを自分の頭で考えたいので、書きながら考えてみます。

まず、最初に言っておきたいことですが、私はスピッツもブルーハーツも大好きなんですね。なので、歌謡曲が悪いとかってことではなくて、それらを幼保年代の子に歌うことに疑問がある。

なぜ違和感を持つのか?そして、その違和感というのは何なのか?その辺から書いてみます。

・限られた教育の時間の中でその歌を歌う必要性はあるのか?
・教師、保護者が好きな歌を歌うということは、どこまで認められるべきか?
・公教育として大人の歌を子供に歌う必要性があるか?
・歌の持つ力を子供の頃に発揮させること




【限られた教育の時間の中でその歌を歌う必要性はあるのか?】

まず、大前提として、教育の場において時間は有限です。

小学校なんかでは「授業時間が足りない」ってことがよく言われますが、「限られた時間の中で何を教えることが大事か?」ってことが問われ、必然的に、そこには優先順位が生まれます。

多分、小学校なんかでは「読み書き計算」が何よりも最優先されるものだと思うわけですが、教育というのは時間が有限であり優先順位をつけねばいけない状況である以上、「何でもいい」ってことはありえないわけですね。

そこには緩やかであっても優先順位があるべきで、数えきれないくらいたくさんある楽曲の中で、ブルーハーツやスピッツなんかの歌謡曲を子供に歌わせることにどれだけの必然性と必要性があるのか?っていう疑問です。



【教師、保護者が好きな歌を歌うということは、どこまで認められるべきか?】

上の問題と絡みますが、私は親が好きな歌、先生が好きな歌を子供に歌うことは全然悪いことではないと思います。というか、良いこと。

「好きな人と一緒に歌を歌う」ってのはとても平和で幸福な体験になりますから。

ですがね、これは日本のあらゆるところでたくさんある事例でしょうが、「長渕剛が好きなパパがずっとそれを聞いて子供も好きになる」とか、「SMAP大好きなママがそれを聞いて娘も好きになる」とか、そういうバージョンが、たくさんあると思うんです。

サザンだったり、ユーミンだったり、ミスチルだったり、ゆずだったり、ビートルズだったり、嵐だったり、AKBだったりと。

それは悪いことではないんです。

が、「公教育の場でそういう志向を持ち込むのはどうなの?」って考えてみれば、疑問を持つ方は多いと思うんです。

先生が矢沢永吉が大好きで、「その喜びを園児たちと分かち合いたい!」って言っても納得はしづらいし、いや、だったら永ちゃんじゃなくて、自分の好きなアーティストをやってくれよ!ってことも考えると思うんですね。

で、「なんで、X JAPANじゃないの?なんでボンジョビじゃないの?なんで北島三郎じゃないの?」って言われても、答えなんてありません。

「人の好みはそれぞれで、好き好きですね。」としか言いようがないわけで、親や友達と自由な時間にどんな音楽を聞くのも自由ですが、「公の教育の場で特定のアーティストの楽曲をやる」となると、それなりの理由は求められると思います。



【公教育として大人の歌を子供に歌う必要性があるか?】

去年、ラグビーのワールドカップが日本で開催され、大いに盛り上がり、ニュージランド代表・オールブラックスのハカが話題になったりもしましたね。

あれはマオリ族の伝統的な表現であり、ニュージーランドの人ならば誰でも出来るようなものだそうです。戦いの時だけでなく、葬儀なんかの厳粛な場所でも使われる地域と民族に根付いた伝統的な表現。

その国、民族によって、さまざまな歌や踊りが伝承されていると思いますが、そういう伝統のあるものを教えて歌う場所というのは、公教育の場をのぞくと、極めて少なくなっています。

今、「日本人が誰でも一緒に歌える歌」というのはどれくらいあるでしょうか?

「世界に1つだけの花」とか、「おどるポンポコリン」とかですかね?

ちょっと前までは童謡だったら老若男女の多くの人が歌えたりしました。

「ふるさと」「あかとんぼ」「四季の歌」「おもちゃのチャチャチャ」とか。

そういう「子供の歌」を歌い覚える機会というのは、基本的に子供の時しかありません。

なのに、「童謡・子供の歌」を覚えて歌う時間を削ってまで、歌謡曲や一般に知られている歌・1個人としての大人が好きな歌を、公教育の場でやる必要性というのはあるのでしょうか?

その時間の分だけ、他の歌を覚え歌う時間は削られるわけで、「その削られた分の価値よりも、もっと大きな価値を提供出来ている」ってことを言えるのかどうか?

大人になってから「四季の歌を覚えました。」なんてのは外国の人でもない限りあまりないことだと思うんです。

そして、大人になって覚えた歌には、「体験」というものが付随しません。



【歌の持つ力を子供の頃に発揮させること】

で、そこです。体験です。

「夕焼け小焼けの赤とんぼ~ 負われて見たのはいつの日か~♪」っていう歌詞には、燃えるような真っ赤な夕日が沈む頃に、草原の中を赤とんぼが直線的に飛び回っている光景というのがセットになっていますが、そういう「体験と歌」を身体に刷り込めるのは子供の頃だけです。

子供の頃に感じた空の青さ、海の青さ、太陽の大きさ、赤。白いこぶし、黄色い菜の花、真赤な薔薇、紫の朝顔、そういう様々な感受性を歌と一緒に取り込んで、大人になって歌とともに再起動出来るのは、子供の時期だけだと思うんですね。


「センス・オブ・ワンダー」という、エッセイというかなんというか、極めて短い文章があります。

昔、書いた記事。↓↓↓


「センス・オブ・ワンダー」を読んで。

その中の一文。

人間を超えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくことには、どのような意義があるのでしょうか。自然界を探検することは、貴重な子ども時代をすごす愉快で楽しい方法のひとつにすぎないのでしょうか。それとも、もっと深いなにかがあるのでしょうか。

わたしはそのなかに、永続的で意義深いなにかがあると信じています。地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます。

地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をもちつづけることができるでしょう。

鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ固い蕾のなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な美と神秘がかくされています。自然がくりかえすリフレイン -- 夜の次に朝がきて、冬が去れば春になるという確かさ -- のなかには、かぎりなくわたしたちをいやしてくれるなにかがあるのです。

大人になっても、当然、世界の美しさは感じられます。

ただね、子供の頃に感じる世界と、大人になってから感じる世界は違うもので、大人になって「お月さまがずっとついてくる!」ってことをガチで信じる人はいませんw

子供の頃は森羅万象のアレコレは自分と同じ線上に立っている同一の世界の存在で、全てがアニミズム的な性質を持っていたりもします。

もちろん、個々の性質・個性によっても違う話ですが、「子供の頃にしか獲得出来ない世界観」というのは確かにあって、それを美しいメロディと歌詞によって心のどこかに記録しておくっていう作業は、とても重要なことだと思うんですね。

「手のひらを太陽に」って歌いながら手のひらを太陽に透かして見たあの日や、「ちいさい秋みつけた」って歌の感じる寒い季節がやってきたあの感じや、「屋根より高い鯉のぼり」と歌った瞬間に思い浮かぶ、青い空を泳ぎ続ける鯉のぼりの姿や、「おもちゃのチャチャチャ」を歌った時に感じる「寝てる間にオモチャが遊んでるかもね~♪」っていうトイ・ストーリーそのままの世界観は、子供の頃に獲得した体験によるものだと思うので。


歌謡曲を歌うことが悪いとは思いません。

実際、私が幼稚園の頃に教わって今でも大好きな「切手のないおくりもの」という曲は、1977年に財津和夫が作った歌でNHKで放映されて人気になったものですが、あれを「歌謡曲じゃない」っていうのはちょっと無理があります。

当時の流行りの歌であったのも間違いがない。

でも、40年近く立って大人になった今でも、当時の情景と共に心に残り心を暖めてくれる歌でもあります。

なので、重ねて言いますが、歌謡曲が悪いわけではありませんが、「こういうのはないだろ?」ってものの条件をいくつか挙げてみたいと思います。


・長い(子供が簡単に覚えられない)
・歌いにくい(子供が音程を取りにくい歌は微妙)
・18禁(サザンが良いと言ったって「マンピーのGスポット」はない)
・意味がわからない(大人にはわかるけど子供にはわからないという歌詞。逆は可。)
・普遍性がない(「ポケベルが鳴らなくて」って歌には普遍性はないですね。)


と、色々と書いてみましたが、別にこれが答えであるとか正しいものであるとか言う気は全っっっっくありません。

あくまで、「考えてみた」ってことです。

何でも言うようにブルーハーツやスピッツが悪いわけでも歌謡曲が悪いわけでもないし、童謡や昔から歌われている歌が正しい訳でもない。

全ては柔軟に変化して取り入れて行くべきものであって、大事なのは、「子供にとって良いものはなにか?」ってことを絶えず考えてアップデイトしていくことだと思います。

そういう意味で、「良い曲だし、俺が好きなんだからいいじゃん!」っていう姿勢は、公教育としてはないと思う次第です。

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