188_Aurora「Flare」

(前回からの続き)

私の省吾さんへの気持ちは、教え子である妹の愛菜ちゃんには筒抜けだった。彼女は私の気持ちを察してか、ある計画を温めていた。
「まずはさ、私とお兄ちゃんと先生の3人で近くの山とかにハイキングでも行こうよ、ね。とっても楽しそうでしょ」
彼女はわかりやすいくらいニヤニヤしている。もちろん私は彼女の提案を受け入れるしかない。自然の中でイキイキと活動している省吾さんの姿や眼差しを想像するだけで気持ちが高まった。彼女はすぐに行動を起こした。
「お兄ちゃん、二つ返事でOKだったよ。先生がね、アウトドアに興味があるんだって適当に話しておいたけど。でもお兄ちゃんって、本当に自然とか植物のことしか頭にない人だからね」
それはよくわかっている。彼が私自身に興味など抱いているわけではないということも。私は優しいが少々過保護な両親の元で籠の中の鳥のような私に比べ、彼はおそらく本当の自由を知っている気がした。そして、自分の好きな植物をただずっと追い求めている姿がとても魅力的だった。

私は何も言えないまま、大きな流れに身を任せることにした。そこまで高くない山とはいえ、山登りなど小学校の林間学校以来だった。経験に乏しく不安だったので、慌てて愛菜ちゃんとそれなりのアウトドアグッズを買い揃えに行った。足手まといにだけはならないようにしないと。私は彼についていけるかどうか不安だった。だが、彼の一番近くで彼が自然を楽しむ様子を見てみたいとも思った。

ハイキングの前日の夜は私はまさに遠足を待つ小学生の気分で、興奮してなかなか寝付けなかった。朝、寝ぼけ眼で電車に乗り込む。都内から1時間程度電車に揺られて、目的の山の最寄りの駅に3人で集合することにした。当日はよく晴れ渡った秋晴れで、こんな日に自然の中にいられることが本当に清々しい気持ちだった。

省吾さんはとてもこなれた様子で、自分なりの必要最小限であろう荷物に、軽そうな素材のシェルジェケットを羽織って颯爽と現れた。腕まくりした腕は一見細そうだが、日に焼けて肌に血管が浮いていて程よい逞しさがある。キャップの下から覗く彼の澄んだ瞳に吸い込まれそうになった。

愛菜ちゃんも慣れているのか、きちんとしたサイズ感と実用性に、可愛さも盛り込んだウェアを着こなしていた。私だけが、いかにも買ったばかりというのが丸わかりの真新しいアウトドアウェアに身を包んで、なんとも不恰好なことこの上なかった。だが、これも仕方ない。

「ここは俺も何回も登ったことがある。平坦で簡単な山だから、山登りのうちにも入らないよ。でも、色々と面白い植物があるんだ」
彼は山の上方を見つめながら、誰に言うわけでもなく語りかけた。私はただただうなずきながら、彼の瞳を見つめている。愛菜ちゃんは肘で私をつつく。
「あ、あの今日はよろしくお願いします」
「よろしくもなにも。俺も好きに楽しむだけだから」
「そうそう、どうせお兄ちゃんは植物のことしか見てないからね」
「なんだよ、悪いかよ」
省吾さんは白い歯を見せて笑った。彼の笑顔と愛菜ちゃんの掛け合いに、段々と私の緊張がほぐれていく。

清々しい秋の日差しを受けて、3人で黙々と山を登る。まだそこまでとは言えないが、山の葉の色も少しずつ赤や黄色に色づきはじめている。都内からアクセスも良い場所であることもあって、多くのハイキング客で賑わっていた。確かにそこまでハードな山ではないのだが、なにぶん自分と体力がない。軽々と山道を登っていく省吾さんの背中のリュックの上下の動きだけを見つめていた。周囲からは都会ではあまり聞かないタイプの鳥の囀りで溢れている。私はだんだんと無心になって、目の前に足を動かすことに慣れてきた。

結局、1時間もしないうちに、眺めの良い山頂まで到達することができた。時間はちょうど昼時だった。私は朝、握ってきた小さめのおにぎりを口に頬張って、水筒にいれた熱めのお茶を飲む。
「ああ、美味しい」
私は噛み締めるように呟いた。本当に真からそう感じた。下界で食べるものとは、まったく別の世界の食べ物のような味わいがあった。
「山ん中で食べるものって、本当に不思議となんでも美味しいよね」
「だな」
3人で切り株に座りながら、質素ながら心の満たされる贅沢な食事を楽しんだ。彼は自分で握ったのだろうか、いかにも不恰好なお握りを取り出して口に運んでいた。

「ここには何回か登られているんですか」
「ああ、ここの山もね、親父に連れられて、愛菜とも一緒に家族で何度も来てるよな」
「そうそう、お兄ちゃんがすぐどっかの植物を見つけようとして、はぐれちゃうから大変なのよ。そのたびにお母さんに怒られて。全然懲りないんだから」
「だから、俺は山は一人で登る方が気楽でいいんだ。好きに植物と触れ合えるし。誰にも文句も言われない」
「一人だと余計に静かに、なんか心が落ち着きますね」
「そう、ここは人も多いけど、誰もいない冬の山なんか最高だよ。去年も谷川岳に一人で登ってきてね」
「やだ、私、寒くて耐えらんない、しかも一人なんでしょ」
「あのな。人間、孤独になると生きる力が増すんだよ」
そう言いながら、彼は気まぐれに落ちていた木の枝を取り上げて、木の皮の手触りを楽しんでいる。私はそんな風に孤独をとらえられることに対して、羨ましそうに彼の横顔を見ていた。

彼はたぶん、ずっとこんな風に素晴らしい山や自然の中で動き続けるのだろう。その姿しか想像しえないし、それ以外の彼の姿は想像し得ない。私と彼が恋人同士になって一緒に街を歩いたり、映画館に行ったり、そんなことを妄想してみても、彼のこの自然に向ける眼差しが私には決して向けられることはないことはわかっている。妄想は妄想のままにして胸の内にしまっておかないと、自分が惨めになるだけだ。

彼と距離が縮まったのか、そうではないのか定かではないが、今日、彼のいろんな表情を見れたのは本当に嬉しかった。山から帰って自分の部屋に戻ってきても、ずっと心の中で噛み締めるように今日の光景を心に刻んだ。

ただ今日起こったことが、自分の中で最高に幸せすぎて、おそらく、もうこれ以上彼に対して私がどうこうしようなんてことはできないだろう。勇気がない、という話ではない。彼が自由にこの自然の中にいてくれていることが私の望む彼のあり方だった。それ以上でもそれ以下でもない。彼に思いを告げることはこれからもないだろう。私は静かな確信ともに、心地よい疲労感とともにゆっくりとベッドの中で目を閉じた。

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