見出し画像

衝撃の急逝から10年。フジファブリック志村正彦が「ゆとり世代」の僕らに遺したもの

 2010年代最後となるクリスマスイブ、ひとりのミュージシャンの名前がTwitterのトレンドに上がっていた。

 志村正彦、ロックバンド・フジファブリックのボーカル。

 この日は、志村の没後ちょうど10年。2009年12月24日、志村は29歳という若さでこの世を去った。

 志村が急逝した時、僕は大学3年生で、21歳だった。今でもよく覚えている。登録してまもないTwitterのタイムラインで、彼が死んだことを知ったのだ。当時、僕は就活の真っ只中で、この先どうなるかわからない不安の中にいた。そんな時、「志村がクリスマスイブに死んだ」という情報に触れ、自分でも意外なくらい動揺したのだった。

 フジファブリックの曲はよく聴いていたけれど、決して大ファンというわけではなかった。生で彼らの演奏を聴いたのは、志村が亡くなる直前の夏に訪れたロック・イン・ジャパン・フェスティバル2009が初めて、というくらいだ。

 また、フジファブリックはサザンやゆずのように国民的に世代を超えて話題にのぼるミュージシャンでもなかったし、ブルーハーツやボウイのように、熱狂的信者が多数いるカリスマ性を帯びたバンドでもなかった。

 誤解をおそれずに言うなら、フジファブリックは、いたって普通のバンドだった。

 にもかかわらず、志村の死は、どんな有名人の訃報以上のショックを僕に与えた。その晩はあまりよく眠れなかった。なぜか怖くて、フジファブリックの曲を聴く気にもなれなかった。「自分はこの先どうなるのか?」という不安がどんどん大きくなるような気がしていた。

 あれからもう10年も経つのか――。31歳になり、いつの間にか志村の年齢を追い抜いてしまった僕は、あの日と同じTwitterのタイムラインで「今日で10年」という事実を知った。SNSには、あらゆる人が綴る志村への想いが溢れていた。その晩も、翌朝になっても、書き込みは絶えることはなかった。書き込んでいる人の多くは、僕と同じ時代の空気、不安感、そして志村死去の一報に触れた時の大きな衝撃を共有しているような気がした。

 志村正彦というミュージシャンは、僕らにとって、どんな存在だったのだろうか。

 僕は音楽関係のライターではない、単なる素人のリスナーだ。彼がその後のJ-ROCKにどのような影響を与えたか、などの考察はできない。また、彼がどのような音楽性をルーツにしたミュージシャンだったか、ということを分析することもできない。

 しかし、そんな僕でも確かに言えることはある。

 志村が書いたフジファブリックの曲は、「ゆとり教育の第一世代」(1987年生~)と呼ばれる、現在30歳前後の人たちが大人に成長していく過程と一緒に存在していた。大人たちから「ゆとり」と言われて馬鹿にされた上、リーマンショックのあおりを受けて就職難まで経験した僕たちを「控えめに」応援してくれていた。

 フジファブリックのメジャー・デビューは2004年。「桜の季節」というシングルだった。

 高校2年だった2005年、僕はガールズバンドでドラムをやっていた女子から「桜の季節」のCDを借りた。

「私の好きなバンド。聴いてみて」

 と、彼女は言った。僕はこの時に初めてフジファブリックの存在を知った。

桜の季節過ぎたら 遠くの町に行くのかい?
桜のように舞い散って しまうのならばやるせない
(「桜の季節」2004、作詞・作曲:志村正彦)

 変わった曲だな、というのが第一印象だった。聴き慣れている「ロック」とはちょっと雰囲気が違うし、ボーカルの声も特徴的。歌詞もよく意味がわからなかった。

 その女子は、

「これは春ね。夏、秋、冬もあるから、貸してあげる」

 といい、続けて「陽炎」「赤黄色の金木犀」「銀河」の3枚も貸してくれた。四季を題材にした連作シングルだった。

 この3枚で、すっかりフジファブリックが好きになってしまった。iPodの通学の時に聞く曲リストにはフジファブリックの曲がずらっと並んだ。

 個人的な嗜好なのだが、僕はあからさまに「ガンバレ!」と迫ってくる「応援ソング」が苦手だ。頑張れって言われたらむしろ頑張れないよ、と思うひねくれたタイプで、フジファブリックの曲はそんな僕に合っていた気がする。

週末雨上がって 僕は生まれ変わってく
グライダーなんてよして 夢はサンダーバードで
ニュージャージーを越えて オゾンの穴を通り抜けたい
(「虹」2005、作詞・作曲:志村正彦)
東京の空の星は
見えないと聞かされていたけど
見えないこともないんだな
そんなことを思っていたんだ
(「茜色の夕日」2005、作詞・作曲:志村正彦)

 当時は「応援されている」とは思わなかったが、改めて志村が書いた歌詞を読み返すと、遠回しだが、かなりポジティブなメッセージが伝わってくる。

 僕ら世代より「お兄さん」である志村(1980年生)は、思春期の子供がちょっとひねくれている、というのをわかった上で、このような曖昧な表現でエールを送ってくれていたのかな、なんて思ったりもする。

 2007年、僕は大学に入学した。

 高校時代とは変わり、目の前の世界が広がり、やることも増えた。行く街も、会う人も、桁違いに増えた。

 そんな中で、高校時代にあれだけ聴いていたフジファブリックからも少しずつ離れていったように思う。

 志村の急逝後に一気に注目を集めるようになった「若者のすべて」は、僕が大学に入学した年の冬に発表された曲だった。フジファブリックの新譜が出たな、というくらいの認識はあったが、そこまでこの曲に注目していなかった。

最後の最後の花火が終わったら
僕らは変わるかな
同じ空を見上げているよ
(「若者のすべて」2007、作詞・作曲:志村正彦)

 2009年夏、大学3年生になった僕は大学の友人と一緒に、「就活がうまくいくかどうか分からないし、学生最後だな」と言って、ロック・イン・ジャパン・フェスティバルに繰り出した。前年9月からのリーマンショックのせいで、一つ上の先輩たちは就活に苦しんでいた。僕らもどうなるか分からなかった。そんな中、音楽は漠然とした不安をかき消してくれる存在ではあった。

 そのステージにフジファブリックがいた。

 志村は、思ったよりも激しくパフォーマンスするタイプのフロントマンだな、と思った。髪を振り乱し、ギターをかき鳴らしていた姿が印象的だった。この日のフジファブリックは、「虹」は演奏したけれど、「若者のすべて」はやらなかった。

 志村が亡くなったのは、それから約5カ月後のことだった。

 2009年から2010年に変わるカウントダウン・ジャパンにフジファブリックは出る予定だった。もちろん僕はそのチケットを予約していなかった。志村不在のフジファブリックのステージでは、生前の動画が流されたらしい、と後で誰かが話していた。でも、僕はその後もYouTubeなどで確認しなかった。なぜか分からないが、とにかく怖かったからだ。

 2000年代を学生として過ごした僕らは、社会人として2010年代を迎える予定だった。そこに、志村とフジファブリックもいるはずだった。

 なぜ、あの時、僕は志村の死に動揺したのだろうか。

 同年の5月に忌野清志郎が亡くなった時も悲しかったけれど、その時とは比べ物にならないくらい、志村の死は衝撃的だった。

 29歳という若い才能が失われたことへの悲しみだったのか。それもあったとは思うが、ちょっと違う。普段は意識しないけれど「いつもそこにあったもの」が予告なく、急になくなったことに恐れ慄いたと言ったほうが正しいニュアンスかもしれない。とにかく、あのニュースは、当時の僕にとって未知なる恐怖だった。

 志村は、2010年を迎える直前に、1人いなくなってしまった。そして、2010年代は志村不在のまま――フジファブリックというバンドは続いているが――もう終わろうとしている。

 2010年代の10年間、日本ではテクノロジーが急速に進歩し、色々なものが変わった。多くのものが消え、多くのものが生まれた。この時期に社会人生活をスタートし、いま中堅になろうとしている僕たち「ゆとり第一世代」は、その劇的変化の前で「若者代表」にさせられて、必死に対応してきた気がする。そんな10年間だった。

 音楽も変わった。今、10年前の曲を聴いて「古いな」と感じることはしょっちゅうだ。人気のアイドルも変われば、バンドも次々と出てくる。

 だが、そんな変化の時代の中にいても、2000年代の風景を歌っている志村の詞は、今聴いてもまったく古びることがない。むしろ、シンプルで意味深でちょっと前向きな歌詞は、普遍性を帯びて、あの頃以上の輝きを放っているようにも思える。

 2000年代の終わりに姿を消した志村は、2010年代の終わりをもって、間違いなく「ゆとり世代」の伝説になった。残されたメンバーは、フジファブリックとして今も精力的に活動を続けている。志村が遺した数々の曲は、彼らの演奏によって、これからも聴き継がれていくのだろう。(文中敬称略)

初出:文春オンライン(2019年12月29日)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?