【asd】やりたい事とは言うけれど
「やりたい事」がわからないって話をたまに目にする。
自分も「やりたい事」がわからない人間だった。いや、今でもわかってないかもしれない。
長らく、やりたい事を見つけられない内に「やりたい事」という言葉の解釈を考えるようになった。
こうはなりたくない
学生の頃は、やりたい事はわからないけど、やりたくない事は、はっきりしてる人間だった。
白黒思考というか善悪の区別がはっきりしてて、
ズルい事はしたくない。犯罪には手を染めない。悪い大人にはならない
というような思いを漠然と持っていた。
別に「真面目な人間になりたい」と思っていたわけではないが、消去法的にそうしようとしてのは確かで、
「やりたい事」では無かったが「やろうとしてた事」ではあった。
なんとなく「やりたい事」って、言葉は、夢とか生きがいみたいな、明るく前向きな事を連想させるけれど
自分のやろうとする事が「やりたい」という気持ちを原動力にしてるとは限らないのだと思う。
やりたい事を探してみても
asdを自覚したての頃に、自分に合った「やりたい事」があるはずだ。と希望をもって、
それまでやってこなかった興味ある事に色々と手を出してみた事もある
初めての事は、何でも新鮮で刺激的だし「面白い」「興味深い」と思える事だらけだけど、
学習し、上達していくにつれ、新鮮さは無くなり、途中で「やりたい」という気持ちが無くなる事が、ほとんどだった。
どうやら、その辺が僕の「やりたい事」の限界のようで、楽しくなくても続けるほどの「やりたい」が見つかる事は無く、
そこから先、続けていくには、別の何かが必要だと実感した。
だから「やりたい事」っていうのは、あくまで何かを始めるとっかかりにすぎなくて、
続けていくには「やりたい」かどうかよりも、「続ける」理由や意思が必要なのだと思う。
そう思うと「やりたい事」がそんなに大層な事で無くて良い気はする。
昔から変わってない
自分の「やりたい事」が立派な事で無くても良いと思ってから、
「昔はどうだったけ?」と考えるようになった。
思い返せば、昔から自分の「やりたい事」っていうのは、ゲームだったり遊びだったり「楽しい事」だけで
「楽しい事」は、「まだやりたい」「もっとやりたい」と思う事はあっても、
それ以外のほとんど全部は、やりたくない事ばかりで、
「怒られるからやる」「言われるからやる」という気持ちだったと思う。
よくよく考えたら、今も昔も「楽しい事をずっとやっていたい」という思いしか無くて、
でも、現実ではそうもいかないし、それを口にするのは、少しはばかられるのもあって、
代わりの「やりたい事」を探したのだと思う。
やってみなきゃわからない
僕の「楽しい事をずっとやっていたい」という「やりたい事」は、完全に叶う事は無いのだけど、
その代わり「楽しみ」を探すようになった。
ずっとは無理でも、色々な楽しめる事を探していく事で、少しでもそういう時間を増やしたかったからだと思う。
とはいっても、楽しい事を新しく探していくのは、結構、大変で、
やった事のない事とかは、やっぱり怖いもので、
でも、当たり前だけど、やった事が無い事は楽しめる事かどうかもわからない。
なんなら、想像力に乏しいasdである以上、実際に体験する以外に、判断する事は、できないだろう。と、強く思う。
だから、おっかなびっくりではあるし、やたらと腰が重く、時間もかかるし、休みながらだけど、
少しずつ少しずつ知らない事に挑戦しながら、生きている。