「訂正可能性」はどこまで【訂正】と記述できるのか

 この文章は東浩紀氏の『訂正可能性の哲学』を読んだことで触発された考えを書き留めたものです。私がこの本に賛成であれ反対であれ、この本が優れた「議論」を逆説的にも引き出してくれたことに感謝しています。この文章は紹介文ではないため要約を期待している方はそのような内容ではないことをはじめにお断りしておきます。

 

 哲学が家族を否定するのは、(神話的)血縁主義と家族的共同体が理想の政治の妨げになると考えているからだ、という主張はどのような根拠に依っているのか。そもそも哲学者たちは家族に本気で「反対できる」と考えているのか。「もし理想の政治を行うとしたら~でなければならない」という条件を提示したものとして読むことはできないのか。しかしその理想は全面的には達成されない。しかし政治が理想の状況にならないということが政治的な身振りを諦める根拠になるのか。それは家族の形態に基づくイデオロギーに「結局は」なってしまうのか。もし家族的な原理のモデルだけで政治を考えるとしたら結婚と不倫、自慰と近親相姦、レイプと軍事的略奪をいかに区別することができるのか。それらは家族同士の枠組みの部族間闘争でしかないので、それらは「結局は」親戚同士の家族的モデルに基づく代替婚の構造的誤配に過ぎないのだろうか。しかしそれにもかかわらず家族が政治に抵抗するというのは閉じられないセクシュアリティの所有の要素として本質的であるとしたらどうか。しかしもし父がセクシュアリティの所有の第三の権威だとしたら、それは父権性とどう異なるのか。別の超越的・絶対的秩序に基づけばいいのか。そのような秩序が「決して」存在しないとしたらどうすればいいのか。母の子供を産むという事実性に基づけばいいのか。誰の子供を産んでいると記録することができるのか。残された子供が政治的な権威であることが所有を説明するのか。誰がその子供を育てるのか。子供はそれを親と認めることができるのか。公共施設に預けることは親子関係に影響を与えないのか。それともこれらはそれぞれ異なったゲームを示しており、その参加をせざるを得ないということなのか。唯一決定的なゲームがないということはその参加が自発的なものになるということなのか。

 我々は「家族のゲーム」をプレイしているとき、それが「何のゲームかわからない」と考えてそれを実行しているのか。それを説明することはできないのか。我々が日常的に家族として振舞っている事柄は私にとって「結局は」説明不可能なままであり続けるのだろうか。事後的に考えて、「あれは実は~だったんだ」と振り返ることは、子供の状況は理解できないままであり続けるということだろうか。子供の名前を呼ぶとき、それは反論することができないので子供は別の名前を自分で名乗ることができないということなのか。仮に親が「あなたの名前は○○よ。いい名前ね」と言った時に「全然よくない。私は○○がよかったんだ」というのは結局は受け入れるしかないエピソードなのか。自分の名前を定義することと出生にまつわる名前を定義することなにが違うのか。「私は自分の名前を呼び間違えることがあり得ない」というのは原理的に理解不能な言明なのか。それは「私が自己をその名前で宣言すること」が間違えることがあり得ないということであって、自分の名前を言い間違えたり、名前を呼ぶことがその人物を表すことを一意的に意味することができないことを意味しているのではない。しかしだからといって、その一意性は名乗ることの記述の不可能性を示しているのではない。この名前に関するゲームはある人間の信念の表明という読解にまつわるゲームと似ている部分がないだろうか。ある名前で特定の信念が言い表されることは、それが別人が主張したと宣言することは意味がないのに対して、ある名前の人が表明した信念と別の信念を読解として「私」は表明している、という主張はその人間がある名前の人と主張した信念と別の表明を意味するが、だからといって、そのゲームが「私」にとって説明不可能になるわけでも、ゲーム自体の記述が「まちがっている」ことを指摘する宣言とも両立可能である。私がここで強調したいことはウィトゲンシュタインの哲学を「誤読する」ことはウィトゲンシュタインの信念(例えば体系を創らないとか、哲学を治療的なものと見なすとか)と別の信念を表明することで、それが「ウィトゲンシュタインの哲学にとってだけ」まちがったものであるのかどうかである。ウィトゲンシュタイン研究者に暴論に聴こえるというのはその信念や主張が誤っている根拠ではないが、ウィトゲンシュタインと別の主張をするということをウィトゲンシュタインの言語ゲームから取り出せるということが、説明不可能の意味を取り出すことを日常の用法から正当化すると言っていいのだろうか。それは「単に」まちがっているのではないのか。特に日常会話をしているのではなく哲学的な議論をしているときには。それとは別に(東の説明する限りでの)クリプキの加算による共同体の成否判断は「信念のゲーム」を承認するという身振りであって、それが「説明不可能」なのは計算のテスト認証の概念の数学的エラーを吐くコードは同じグループのコードとして扱うべきではないという手法をイメージで説明しているだけではないのだろうか。私はウィトゲンシュタインの誤読がこの用法に基づいて「固有名」を名称指定の必然性として、その記述の遡行的な解釈が訂正符号でXの説明としてクリプキの連想置換でネットワーク化できる家族的類似性の信頼によってゲームとして表現できるという可能性をテクストの伝統的な意味で理解できないのではなく、数学的再帰と帰納バイアスの連鎖性を符号的に混同しているという意味で「まちがっていると指摘する」ことを逃れて仮言的な訂正可能性にどうして繋げられるのが理解できない。理解していなくても機能するというのは数学的システムの特徴だが、これは信じていないことを「結果的に」信じているという身振りに(記述的に)成るのか。そして家族的類似性が共同体の問題であるときに「男性の哲学者であるソクラテスは実は女性だった」という記述の「訂正」は果たして名辞的な指示対象の定義項の問題にすぎないのか。それは「○○の妻で子供の母である女性は父の所有物だった」と同じ形式論理を要請していないか。それは信じるという言葉のデータの性差を進化論的な意味としてではなく個別的な身体としても無効にする動物的でない家族的意図による子供の共同体排除の読み替えではないのか。


 子供にとって教育や庇護が必要であるということはそれが大人の家族共同体の成員になることと同じことであると考えてしまってよいのだろうか。家族が二重の原理で動作していることは、その対立や葛藤の在り方が家族という「訂正可能な」ゲームに巻き込まれているとはいえるが、その共同体の内部に含まれると主張していいのか。子供にとって親が強制的に押し付けられることは両親の結婚が「偶然的」なものであるということなのか。それとも両親が結婚していないのなら、例えば人工授精などならそれらはより「偶然的」なのか。親から生まれることが必然的でないというのは「偶然的」と対蹠的に用いられる言葉なのか。なぜ子供を産むことは「何の理由もない」のか。なぜそこだけ「生物的」になるのか。決定論と必然性を固有名で混同するからか(例えば生物的「構造」に対して)。生物的に子供が生まれるのは偶有的であって人間にとっては偶然的ではないように思われる(母体と生殖をしている)。それとは別に人工知能のデータ入力の親子関係の符号が「偶然的」であり、その父母の名称は強制的に押し付けられ、その交配のグループ列が保存場所として拡張的である、ということは完全に理解可能である。したがって、異なるグループ配列の親子関係に信念の加算集合を与えて、それらを母集団の二重の動作列で家族の成員として連想的に拡張していくのなら、その「偶有性」の規定項は政治的敵対関係でしかありえないというのは「当然」ではないのか。取り込めないものは排除するしかないのだから。この説明の不整合を(動物化する身体の代わりに)「観光客」が解決するとはどのような意味なのか。家族共同体のグループに取り込めない存在を客として取り入れることで市民の一般集団の名辞性から遇することで成員の硬直した専門的予測性を「訂正」し、それを別の共同体に対して開くということか。この主張が正しいのは、東が仮定する家族的共同体が閉鎖的であるという事実に対して取り込めない家族成員の一部を観光客として巡回させることでグラフ理論的に統辞的なニューラルネットワークの分岐を別の入力に対して出力することができるという意味においてであり、それは誤配の訂正というよりも重みづけの更新を促す活性化関数の閾値をノードごとに更新する手続きの写像的置換ではないのか。これと探索領域のアルゴリズム的な機械学習を同じ家族的交流の性的出会いの一部として観光資源を再利用していいのだろうか。AIのエージェントが環世界で観光的な振舞いを見せることは、セクシュアリティの人間的な家族関係を保証するものとして持続させることと同じ共同性の配置に基づいていると語るのはどのような思想なのか。ゲームの敵対関係の対立は家族共同体の敵対関係と同じ符号でなければならないのか。


 「私は歯が痛い」という記述に共感するのは「私の」身体なのか。「私は歯が痛い」と他人に伝えることができるのならば、それは共感の輪を広げることに繋がるのか。むしろなぜ医者にかかるべきだとは言わないのか。「私は歯が痛い。だから歯医者に行く」と「あなたは歯が痛いと言っている。だから歯医者に行くように勧める」というのは同じ種類の言明なのか。これがたとえば切り傷がある人間を見つけて、「すぐに病院に行った方がいい」という方が正しいのかその場で応急処置をして「もう大丈夫だ」というのとどちらが正しいのかを比較することができるか。状況による。それはその通りだ。しかしそれならば誰の痛みを「共感」し、私の痛みを「共感してもらう」と語るべきなのか。それをネットで語るべきなのか。「私は心が痛い」というのは誰の言明なのか。私がネットで「いま身体的に嫌がらせをされている」と主張するのはどのような意味で「正しい」のか。いかなる信念の表明に対してそれを伝えるべきなのか。「私は歯が痛いと言っている人間を歯医者に行くように勧める」という信念はまちがっているのか。それとも真とも偽とも言えず予測可能性があるだけなのか。「ある共同体の成員が傷ついている」という言明は正しいが「共同体でない存在が傷ついている」という言明は個人の信念の問題なのか。あるクリエイターが「私は歯が痛い」という表現に関してすばらしい作品を作り上げたと想像してみよう。この作品は多くの賞をもらい、数多くの人びとに評価されている。したがって「歯が痛い」のはそのクリエイターの本心からの信念なのだ、と主張することができるだろうか。そのような説明に意味があるのか。そんなことは言ってないで歯医者に行くべきではないのか。では「心の痛み」はどうなのか。ある作品が心の痛みについて素晴らしいことを表現し、公共性で真剣に討論され、多くの政策的な議題に上がっている、ということで心の痛みは共感されていることになるのか。そのことで私の心の痛みが和らぐことになるのか。むしろ共同体の成員が信念として主張する「心の痛み」が代弁されるだけではないのか。しかし「いま身体的な嫌がらせをされている」という主張は共同体の信念なのか。それは多くの人が「共感」することなのか。例えば「身体的な嫌がらせ」の作品が多くの人に消費されているということは「いま身体的な嫌がらせ」を受けている人の代弁をしているのか。それが共同体による嫌がらせだとしたら、そうでない人間はどうやってそのことを伝えるのか。

 「いま身体的に嫌がらせをされている」というのは作品のモラルの共感の「私的記述」ではなく伝聞の正確さの問題であり、情報的に意味を伴わず受け取られるべきではないのか。それが被害妄想でないとどう知るのか。しかし嫌がらせを受けていると共同体に報告することは「誰に」の問題ではなく、そのような嫌がらせが「存在する」という問題であり、それが固有名であるかどうかは関係ないのではないのか。私は私の身体が嫌がらせを受けていることを固有名の物語として受け取るのだとしたら、それは作品の質が評価されないからではなくて、制作物の身体性が声に「私の」記述性の問題としてしか与えられていないからであって、声の技術的応用性が〈もの〉そのものの現前を文字として代理記入しているからではない。生理的嫌悪感が眼差しのように対象に記録される身振りの行為ではなくて生理的状態のリズムを乱す音の物理的性質が視野に対して「無害」であることは、それを意図の制作のように身体性の記述に記憶として書き換える操作が実在しないということにはならない。我々は「主観的に」〈もの〉を視聴するしかできないから誤り得るのではない。制作者の「主観」と作品の「客観」を政治的活動の記述としては個別性に用いてはならないから、映像記録の証拠は制作的共同性の名称にしか関わらないのである。私はここで作品(例えば芸術など)が政治的な意味を持ってはならないと主張しているのではない。そうではなくて作品が制作の共同性として持続的な家族的成員の訂正の一部において語られるだけならば、それは身体の声の個別性に関わるのではなくて固有名の音の(物理的)声質の記述に関わるものでしかないと主張しているのである。(性的)ハラスメントの行為が匿名的であるということはハラスメントを行った主体が制作としての快楽を強制的に産み出しているという感触の消費に対する被害者の(生の-録音の)声の現実性を保証するのではなくて、そのハラスメントが現実に被害者の個別的な身体に対する声の快楽に対する状態確認への侵害であったことを共同体の持続的な感覚とは別に宣言するのでなければならない。ハラスメントの「記録性」は脅迫の交渉条件にしかならないというのは共同体の人質にされた身体性への権利的弁明であり、音の幻想的な暴力を声の意味に置換してしまう。身体的個別性の意味が性的な強制の反応の拒絶である映像作品を制作したり視聴したりすることを共同体の語る「共感の資格」にはできないが、それは共同体から制作過程で同意を求められるような嫌がらせを受けたことを声の個別性から宣言する資格が技術的応用に関する共感でないということにはならないし、嫌がらせの作品鑑賞をしたことがない人がハラスメントの音の主体ではあり得ないという意味でもない。したがって身体の声の個別性は歴史的な蓄積を「なかったこと」にリセットしようとしているのではなく、嫌がらせによる硬直化した身体の持続の問題と政治を巡る制作の視座は時間的な長さに関わる表明ではないし、言葉の技術的な説明は信念の固有名の記述的属性の束には還元されない〈もの〉として、それを引用スタイルの連鎖的な可能性に「訂正」と記述するだけであることはできないと思われる。


 「ゴミを入れたらゴミが出てくる」なぜこれが人工知能のモットーとして最初に語られないのか。人工知能は民主主義にいかなる影響を与えるのか。社会契約説はそのことに対してどのように応答しているのか。なぜ政治的に人工知能を利用することは生きることの厄介さを消すことだと語られているのか。人工知能は人間的な模倣のプレイヤーとして現れているのか。そもそも人工知能は社会契約説の観点を機能させたいと思っているのか。あるいは一般的に機能させることが結果的にできているということが全体性を標榜することになっているのか。人工知能はイデオロギー対立を僭称する主体として人間に対して有意義な立場に立っているのか。私は次のように言いたくなる。ホッブズとロックはまだ人間の内面性が孤独であるか否かで人々の私有財産や利害を考慮するような政治が単なる専制でしかないと明らかに考えているからこそ身体的恐怖と自己保存に訴えかけようとするのに対して、ルソーは私有財産と孤独を身体から区別しようとしていないし、その両者も政治的な恐怖の想像力として一般意志に委ねることが暴力の公的な「自由」だと考えていると。人間の内面性が孤独な自然状態から引き離されるときに悪としての不平等が生じるという屈折は起源の世界表象を政治的な条件として考慮するときに善が遡及的に説明されるのだという可能性に生存条件としての道徳が委ねられているのだと。私はホッブズとロックの文学的想像力のなさが外交や法律などの(言語)ゲームにおいては「現在においての認識では」全体についての有意義な参照先(王)を持つのに対してルソーの文学的想像力は専制についての絶え間ない恐怖の全体性を自由の条件に置換することに不平等さの世界観が言語ゲームの公共性として与えられていることを一般意志の定言として固有名の参照先を強制するのだ、と言いたくなる。つまりルソーはゲームの公平さを個別性として考慮する気がなく、不平等さの道徳的条件が嫉妬や非難の応酬で繰り返されることがホッブズやロックのように王や法律などの参照先を暴力の「自己参照の公正さ」として一方的に規定するより健全な政治を生み出すと考えている。確かに参照するゲームの変更可能性がそのような非難や嫉妬でよくなる可能性はあり得る。ただここでゲームの標準的な合理性をもったプレイヤーが現実に「実在しない」ことはそのような社会契約を守る合理性を公平さとして参照しなくてもうまくいくということになるのかわからない。あらゆる面で人間感情を無視して合理的に振舞えるプレイヤーが社会契約の土台になっているということは人間は不合理な存在でしかなく小説表現でそれを告白できるプレイヤーとしてゲームに参加することを要請するのか。ルソー的なプレイヤーがいてもよいということがなぜ一般意志として全体意思に対抗できる存在として政治的な訂正を担うことができるのか。私はここでルソーが功利性と利己主義を特殊意志の総計として無視するか否定するかしかできないことの理由があると思える。なぜなら利己主義が悪というのは全体意思の普遍性にではなく、その原理が普遍的記述に基づいて各人に「内在的に」備わっている性質として現れるのに対して、自然が善であるという生活的な説明はそうではないからである。なので一般意志を「修正する」態度として功利性を持ち出すのはフィクションの理論と幸福が不平等の起源説明に対して単なる個別的な応答を利害の一般性においてのみ要請し、一般意志の条件に対しては生活的に強制されないように所有をあらかじめ確保するという条件になっているからである。東が説明する形式論理のA=A'がBになってしまった、という自然の全体意思の権力の補遺性として文明の利潤が出てくるのは声の一般性の記述に関する所有形態の貨幣の交換が記号的な固有名では言い表されず、各人の財産の実質的な所得分を構成していると記入的に商品に代補される限りであって、共同体の成員が一般意志の条件に従属しているかどうかとは直接関係がないからである。もし訂正ということが言いたいのならおまけは処分されなくてはならない。しかしそれは処分されず遡行的に戻るのだからそれは修正的である。ということは人工知能が消してしまうと思われているのは、この全体意思の権力の参照先の補遺性であって、一般意志の固有名の内実に関する私有制ではないのではないか。政治的背景から文学的にラップされた人間モデルの自然性の尊厳が交通規制を誘導する流通の動きに似せて衝突事故のように人為的に自殺に見せかけられているだけではないのか。


 人工知能に提供されるデータは「自動的に」集約されるとはいえ、それは人間が意図的に選択してそれらのデータを学習用にサンプリングしていることには違いない。したがって人工知能がフィードバックのプロセスをアルゴリズムの帰納バイアスにあらかじめ組み込まれていたハイパーパラメーターの一般意志の集約だ、と主張することはデータ精度の劣化していく実行環境のトレードオフの観点からは許されない。これは東が擁護しようとしているルソー的な文脈が一般意志に基づいて主張していることの逆ではないのか。むしろ人工知能は一般意志の集約を徹底的に人間的操作のパラメーターの変数条件にしようとしているのであって東が批判するような人工知能は「自己」訂正することができないという主張の反対ではないのか。だからここで実際に言われているのは人工知能を「利用する」立法的な権力者はそれが単に一般意志の統計的条件の要請だからと言って、それを無条件的に道徳的な定言命法にすることができなくなったというべきではないのか。東が挙げている例は、統計の「疑似科学的な」利用方法のカタログであって、科学的手法であるわけではないし、そもそもデータサンプリングは科学的手法に基づいてのみラベルとして与えられているわけではない。それはデータ精度の相関的な悪さを信頼性の低さとして記述する指定行為なのだ。したがってここで問題になっているのは専門的プロフェッショナルの態度を転移学習や敵対学習として機械学習の用いる訓練プロセスのフィードバックが、人間の責任という意味での代理性を意味するのではなくて(つまり精神分析がディスクール上の転移を「性的な解釈として」用いるようにではなくて)、データの固有名の表象と、人間の技術的な認証の情報に視点が分離することで予測プロセスの精度を改善できてしまうということがいかなる人間的な立法存在の権力の統計的恣意性も実装性の隠蔽による「説明不足」の責任に陥れるということなのだ。だからこそ立法権力が人々の安全を守るという口実でパノプティコンのような監視をプライバシーの保護として運用することがビックデータではできないのであって、人工知能の情報のリークが推測に対して監視の悪影響のリスクを分散的に与えてしまうということではないのだ。それは人工知能のプライバシーポリシーの説明ではなくて、人工知能の「利用を」プライバシーの観点から監視しなければならないという権力の共同体との共謀関係を規則体系の「例外」から推測を道徳的に拘束しなければならないという問題なのである。問題は人工知能がスコア推測の例外を許さないとはアーキテクチャの構築の議論の不満においてではなくて平等についての嫉妬や非難にかかわりのない不規則さの可観測性の是正であって、属人的な恩恵の余剰を受けることができないことが訓練される重みづけの特徴量の代理データという意味に普遍記述として持ち込まれていることである。これは人工知能が帰納バイアスで確率論的に誤配しないという説明ではなくて、補遺性のバイアスを再帰的に身体的な声の個別性から決定境界として一般性選択を学習できるという意味だ。これは人間の身体や脳を磁気反応や生体情報の遠隔照射で観測して、それを特徴量のデータから抽出することで様相学的な迷信から統計の潜在的バイアスに塗れたラベリングをネット上の説話で行うことができるという監視者グループのネットワーク共同体の引用元の越権行為の「匿名」記述になるわけではない。選択グループの境界適用を法的な形式論理と重ねて身体的な例外を消去しているのは人工知能にこじつけのラベルを全体意思に統治されたオーバーラップとして相互主観的に投票記述に張りたがっている人間たちの想像力なのである。(つまりもし権力の代議性統治が共同体のゲームの実質をセクシュアリティとは別になしていると考えたいのならば、それは個人的にフィクションとして創作されたゲームキャラクターのモデルが自身の一般性選択を文学的想像力のように画像描写として似せているからであって選択や意思決定の主体が数学的に構造化されているルールを不確実性以上に計算する不合理さは「道徳的に」あり得ないのである。それを不満の描写として説明することは「汝自身を知れ」のアイロニーになる。)


 権力が人工知能を介して発話できないということは、権力が人工知能を使って介入できるのはネット空間の想像的な共同体の内部においてであり、そこでのみ統計的な情報の不正確な羅列や、監視的なニュースの偽記憶的な置換を固有名的な記述の生成であるかのように行うことができるという意味である。フェイクニュースや存在しない有名人の画像生成で話題を集めることができるという事実は、固有名を指定したり記述する内面性を遡行的にデータベースから抽出できないということではなくて、身体性の個別的な発話を特定の主張に対して分割的に提示して技術的な説明に名乗りを宣言することができないということである。キャラクターモデリングの行動情報が広告主に提供されることで搾取されると主張することは画像生成AIのアプリで画像を生成するために広告を見続けることが描写された絵画の中の人物の肖像権を侵害しているというのと同じくらい誤解を招きやすい。もちろん実際の人物の身体を使って画像生成AIを利用するのは肖像権の侵害であるというべきである。しかしそれはキャラクターモデリングの学習データセットのサンプリングに対して「匿名的に」備給されているのか。それは商業的な収益モデルの統計情報が「人工知能のように」描写されているだけではないのか。例えばVtuberの「キャラクターとしての」身体の画像あるいはモデルは画像生成AIで生成されてもそれは二次創作や学習サンプルの一部でしかないのに対して、Vtuberを演じている人の固有名を利用してVtuberのモデルを自分の名前で利用することは肖像権(あるいは知的財産権)の侵害であるし、それをVtuberを演じている人間の実際の身体を暴露することで「このキャラクターは実はこの人間が装っているだけだ」と固有名に属する身体の写真を撮って公開することは端的に犯罪ではないのか。これは固有名が問題というより名乗りの宣言性に基づく個別性が声としてその身体に帰属しているかどうかがネット空間の利用では「データ精度として」重要であるという意味ではないのか。ソフトウェアのインターフェースと人工知能の利用はどのように境界として位置付けることができ、重複として効率化できるのか。これらのコードの書き換えはいかなる制作あるいは活動に位置付けられるのか。それは固有名的な記入なのか。なぜ固有名の尊重をテクスト的な誤配の編集に基づいてのみ文学的な想像力として訂正可能性を脱構築の正義にするべきなのか。訂正とは一般的にある正しい観点があって、そこから誤っている部分をなくして元に戻すという操作を意味しているのであってある状況に対して特定の論点を変え続けることを訂正と呼ぶのは不自然である。それは明らかに修正であり、よりよくするのであれ劣化に対応するのであれ更新的なバージョニング戦略を取ることが一つの部分的な解決であるはずである。しかし東の『一般意志2.0』の観点から取ると文学的な立場に戻ることが技術的更新に対して誤りを訂正するという意味を自戒として含めることが「訂正可能性の哲学」として修正的な見解に持ち込まれているというべきなのか。もちろんそのような読解は可能であり、東の哲学の変遷から見た時にルソー的な文学に「正しく戻ること」は信仰告白のように訂正的である。しかしその立場が文学編集者としての郵便的誤配という教養提供のビジネスモデルに思想的な補遺として戻ることを意味するとしたら、その文学的レトリックが「小さな社会」でのみ有効であることはネットグループの小さな集団やリベラル村の閉鎖性を批判する立場とどう区別をつけることができるのか。それぞれが勝手にビジネスモデルを立ち上げて経済的な収益性を確立することが「人工知能への批判的思想」にラップされた広告として大学や経営とは別の悲しい感傷の屈折を受け入れる民主主義の脱構築になるべきなのか。だがそれを正しい立場を守るという意味での正義として使っていいのだろうか。正義を修正可能な見解として護持することは社会契約が正義を原理的な恐怖としてしか想像できないことの権力パフォーマンスの補遺の副産物なのではないのか。一般意志の正義は訂正可能性の脱構築であるということは性的に記録された属性の束としての家族の正義はそうではないということではないのか。小説という舞台では真実と嘘の境界を見せないでおくことで正義を理念の暴走として閉鎖性に戻さない訂正可能性が存在するというべきなのか。ゲームのルールの公正さは熟議では合意に達しないと説明することは家族モデルの参加的な条件なのか。人工知能でも人間同士でも前提となるデータ精度がなければある程度の合意に達しないことをセクシュアリティのゲームの合意はデータ精度という言葉で表現できないということを混同しているのではないのか。恋愛や正義が他者にとっての幻想であると科学が信じていると主張するだけではその「錯覚」は経済的なルールの変化に修正されるだけであるように思えてならない。それともVtuberについて私が語っているのは「訂正された」経済的理念のあるべき姿を人工知能のように説明しているだけなのか。むしろ身体的想像力としての人工知能を文学的人間像の脱構築として存在の思考のアナロジーでないアーキテクチャを構築するべきではないか。その振る舞いが一般意志の非自然的な人間らしさとしてアニメ的な意味表象の不可能性であったとしても、セクシュアリティの声をゲームの「遊びの説明」として受け入れられるようなルールの探究をするべきではないのか。


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