夏の錯覚。

GW後半。
東京駅から踊り子号に乗って、
海水浴で有名な海沿いの町にいった。

その日は、夜中の嵐が去ったあとの
雲ひとつない快晴で、真夏のような空気だった。
裸足になって砂浜に立つと、
砂は熱くて、海に入ると足がひんやりと冷たい。

気分は、GWというより
もはや、夏休みだった。
夏休み(のような気分)というのは、どうしてこう、
何歳になっても、切なく、懐かしい気分にさせるんだろうと思う。

ぼくが幼い頃、この町に、
夏休みのたびに家族で海水浴に来ていた。
細かいひとつひとつの出来事は覚えていないけれど、
夏休み特有の浮かれた感じとか、
いつもと違う両親のテンションの気恥ずかしさとか、
普段の生活と違う場所にきた不安さとか、
ジリジリと焦げる砂と波の匂いとか、
そういったものが体の奥にまだ残っているような感覚がある。

そうか、僕にとって、
ここは夏休みの町なんだ。
そう気付いたのは、GWが明けて仕事に復帰した
慌ただしいデスクの前でのことだった。

そこまで思い至ったとき、
あの町にいったのは、ほんの2〜3日前のことなのに、
あの場所であったいろんなことがすでに懐かしくて、
リピートしたいような、ちょっと切ない気持ちになった。
勝手にインスタグラムのフィルターをかけて、
思い出をいい感じにしてくれてるみたいだ。
これだから夏休みはズルいのだ。

帰りの踊り子号。
先頭の車両に乗ると、
同じ車両にサッカーチームの合宿帰り風の
小学生ぐらいの集団がいた。

そして、駅のホームには、
子どもたちから「コーチ」と呼ばれる
色黒の若いお兄さんが子どもたちを見送ろうとしている。

踊り子が発車すると、
子どもたちは窓を明けて
「バイバイ、コーチ!!」と叫んだ。
コーチはホームの先頭から体を乗り出して、
満面の笑みで子どもたちに手を振っていた。

この瞬間に立ち会っただけで、
コーチと子どもたちの過ごした、
暑くて楽しい数日間を勝手に想像して、
「またみんなが一緒にサッカーができるといいな」
なんて、勝手に想像して、勝手に切なくなった。

っていうか、こんなシーン、
夏休みの終わりそのものじゃないか。
いまが5月の前半なのはわかっているのに、
「8月31日」という超パワーワードが頭に浮かんだ。

たまたま居合わせたワンシーンを切り取るだけで、
それがまるで思い出話みたいな、
なんともいえない懐かしさを帯びる。
これだから夏休みはズルいのだ。

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