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思い出のビル

月に数回、首都高速で車を走らせて、都外へ行くのですが、いつも気になるビルがあります。都環(C1)で神田橋のあたりを過ぎたところで、南側の奥に見える茶色のビル、1974年に竣工された東京海上日動ビルディングです。昨年の10月ぐらいから解体工事が始まっているので、現在は上層階が黒く覆われ解体されているので、徐々に低くなっている途中といったところでしょうか?

このビルが、私と同い年というのもあるのですが、10年前ぐらいから数年間このビルに週に1回以上通っていた時期があったので、ちょっとした思い出のビルとなっています。建築家の前川國男が設計したもので、茶色いレンガの外壁で、二つのスクウエアをずらして重ねた平面をしています。このビルが最初に有名になったのは、皇居から見えるこの丸の内初の高層建築ということで論争が起こったことでしょうか。それまでは、丸の内のビルの高さは31m(100尺)以上のものが建てられなかったのですが、このビルを建築するために130m近くも制限よりも高いビルを建築申請したところ、地域の美観論争が巻き起こり、現在のこのビルの高さの100mまで建てることができるようになったとのことです。そのため、当初30階建の予定が25階建になったとか。私はこのビルは20階より上に入ったことなかったと思います。これには、時代が求めるところがあったのかもしれません。今この場所を眺めると、東京海上日動ビルを囲むように更に高い超高層ビルが立ち並び約50年という時代の変化を感じます。

近代建築を見ることが好きだったので、前川建築の建物で働ける経験は個人的には楽しかったです。1階ロビーの広々とした空間や地下1階から1階に続く重厚な壁とその質感。丸の内の街に溶け込み新丸ビル側に広々と広がる景色が、東京の中心地なのに、落ち着いたているのが不思議でした。2階以上の内部もオフィスとはなっているので居室の壁や床は普通ですが、どこか昭和の香りがする天井や、エレベーターホールの意匠などはみておいてよかったなと感じています。初期の高層建築にあたるので、トイレが不思議なところへあったり、旧式の電気の操作板が残っていたりと若干使い勝手の悪いものとなってはいましたが、空間を無駄なく使うための工夫を感じられました。また、上層階からの眺めはものすごくよかったです。たまに打ち合わせスペースで打ち合わせそしていると、はるか下の行幸通りに馬車が通るのが見え、それが外交官の赴任に伴う天皇謁見だったということもありました。このビルの外観の鉄骨も内側から見る形になるので、構造とかも好きな人にとってはたまらないですね。丸の内界隈は緑も豊富で都心にいることを忘れさせます。ただ、普通に企業なので、関係者以外は入ることが叶いませんので、ほんといい時を過ごせたとふり会えると思います。

せっかくの前川建築も50年で建て替えと思うと、なかなか建築を残すことは難しいと感じます。老朽化のためとはありますが、いた時も古くはなっていたものの、まだまだ現役でしたし内装も多分何回か変えているので使おうと思えば使えたと思います。一方で時代のニーズを満たすことを建物自体ができなくなってきたことは否めないのかなと。現在の技術であれば建物の空間をもっと広く使うことができますし、環境エネルギーの面では我々ば思っている以上に負荷がかかっていたのかもしれません。また、IT導入やセキュリティー面でも不利な面があったのかも。
こちらに

https://www.tokiomarine-nichido.co.jp/company/release/pdf/220801_01.pdf

建て替え後の新しいビルの情報が掲載されています。木材をふんだんに使って観光負荷軽減が謳われています。いっぽうで、建物の高さが100mというのは、丸の内の景観論争のことを思い出すとちょっと面白いですね。曽根ー前川ーレンゾ・ピアノとこの場所の建物の文脈がどう引き継がれていくのかな?、なんてことを読んで思いました。

近代建築を追っていたのが2000年ぐらいから10年間だったのですが、この間に六本木ヒルズに始まる都心の再開発が一気に始まり、昭和の有名建築も次々と消えていきました。当時から、欧米では旧い建物ほど価値があると言われていましたが、日本はどうしてもその逆を行きやすいのは変わりませんね。


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