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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」番外編:その後のグーフィーとデイビス

最後まで解明されなかった謎を、番外編で回収します。なぜグーフィーがポート・ディスカバリーにいるのかは、17話参照。最終話までのネタバレを含みます。
これで本当に、今作『空の上の物語』は完結です。今までありがとうございました!







 ————その日、ポート・ディスカバリーの高台で、ひとつの爆発が起こった。

 プロメテウス火山が噴火を観測されなくなって、幾星霜。要するにこれは、自然現象ではなく事故、人為的な爆発なのである。それなのになぜ、周囲にいた通行人は騒ぐこともなく、平和に通り過ぎてゆくのだろうか。

 一つ目、その研究所に住んでいる者が、トゥーンだから。要するに、火事があろうと爆発があろうと、けして死なない。

 二つ目、爆発は少なくとも、一週間に三回起きるから。そんなわけでポート・ディスカバリーの人間たちは、慣れているのである。ただし、なかなかに危険度の高いその場所を、訪れようとする者はほとんどなく、外でグリーティングする分には問題なかったが、研究所内を出入りする者は相当に限られていた。

「よーお、グーフィー。また変なものを発明してんだな」

 そこへやってきた、数少ない頻繁な訪問者——印象的なまでに美しい緑の目を彷徨わせている中年男性——ドクター・デイビスは、煙を手で煽ぎながら、奥にいる科学者へと近づいていった。

 もう四十代の初め。老いた、というよりは渋みが増した、というのに近く、端正な眉間や額には小さな皺が走り、目の窪みは彫刻のように深い影を濃くしていた。実際、現在が最も脂の乗り切った時期で、史上最年少でS.E.A.終身会員の栄誉を受け、その後も新たな飛行機開発に没頭する日々。ついでに言うと、ヘビースモーカーレベルはまるで改善されていない。火のついていない咥えただけの煙草を一本、上下にぴこぴこと揺らしながら、彼はグーフィーに話しかける。

「あっ、デイビスう、見てよこれ」

「真っ黒焦げだな。あーあー、またマックスに叱られるぞ」

 がらりと研究所の窓を開け、さしあたって換気に努めるデイビス。空気清浄機をオンにすると、次第に黒い煙は薄らいでいった。

「それに、グーフィー。あんた、髭がちりちりになってる」

「平気だよお、また生えてくるから」

「あ、そう。ならいっか」

 デイビスは、まだ小さく燃えているグーフィーの髭の一本に、口を窄めながら煙草を近づけてゆき、その先端を、ぽっと美しいコニャック色に光らせた。

「で、どおしたのお、ディナーのお誘い?」

「ああ、それもあるんだけど、あんたには先に伝えておきたいことがあってさ」

「……そ、それは良いニュースなの? 悪いニュースなの? どっちから先に言うのお?」

「えーと、たぶん、良いニュースだと思うけど。つーか、そんなガクガクブルブルしなくてもいいだろ?」

「だって、デイビスのことだもの。お金貸してとか、空中レースで大損したとか、アル中になったとかだったら、どおしようって——」

「…………」

 信用ねえな、俺。
 勧められるがままに、バネの飛び出しているソファに座り、哀しく沈黙せざるを得ないデイビス。やがて、冬の凛気のように長い紫煙を吐くと、束の間、煙草を置いて、感慨に耽ったように呟いた。

「もしかしたら俺、来年には、メディテレーニアン・ハーバーに移住するかもしれない」

「ええ? どおしてえ?」

「まだ内々の話なんだけど、ファンタスティック・フライト・ミュージアムの館長に、俺の名が持ちあがってて。もし依頼されたら……受けようと思ってるんだ」

「その博物館って、もしかして——」

「うん。昔カメリアが、二代目館長を務めていたところだよ」

 晴れやかに、どこかくすぐったそうに笑うデイビスを見て、十数年来の友人であるグーフィーは、感涙に堪えない。溢れ出る滂沱の涙を拭いながら、しゅしゅしゅっ、とティッシュを引き出した。

「そおかあ、デイビスう、やっとここまで来たんだねえ。あんなに努力してたもんねえ。ちーん」

「ありがとう。グーフィーと酒盛りしづらくなっちまうのは残念だけど、ポート・ディスカバリーには、ちょくちょく帰ろうと思ってるからさ。帰郷した折には、良いレストランにでも誘うよ」

「奢り?」

「……奢り」

「じゃ、喜んで」

 ちゃ、ちゃっかりしてやがる。帰郷するだけでも結構な額がかかるのに、果たして奢りなんてする金はあるのだろうか。

 その時、ふいに、何かが震える音がした。グーフィーは慌てることなく、机の上に置いてあったトランシーバーを手に取ると、すぐに応答する。

「はい、グーフィー・グーフです」

《やあ、グーフィー、こんにちは! 突然なんだけど、今、ミニーやダイナソーたちとピクニックをしているんだ。君は、チーズ、ハム、ハム、ハム、トマト、チーズ、ハム、トマト、それにチーズのサンドイッチを食べたくはない?》

「せっかくだけど、今、ポオト・ディスカバリイで、デイビスとお話中だから。ばいばい」

 おいおい、割と切り方、雑だな。こちらを優先させてくれたのはありがたいが、そんな返事でいいのかよ。

「しかしミッキーたちもまた、ダイナソー恐竜なんて、凄いキラキラネームの奴とピクニック中なんだな」

「違うよお、本物のきょおりゅうのこと。タイムロオバアで、白亜紀まで戻ってるんだと思うよお」

「えっ、じゃあ、白亜紀の奴と会話してたってこと?」

「ミッキーは、あちこち、ぼおけんに出かけるからねえ。いつでも連絡できるよおに、まほおのかかったトランシイバアを、ボクたちに、プレゼントしてくれたの」

「ふぅん、そりゃなんとも、ディズニーマジックなお話だな」

 と、爪切りで切った爪でも見るような目で、デイビスはグーフィーの手にしているトランシーバーを、何気なく見て————


「あーーーーーーーーーッ!!!!」


「!?」

 突然の絶叫に、びくっ、とグーフィーは大いに肩を震わせた。

「なあに、ちょっとお? しんぞおに悪いよお」

「こっ、これっ、俺が持ってる無線機だ!」

 慌てて、デイビスが白衣のポケットからそれを取り出す。思った通りだ、型も見た目も、グーフィーの持っているものと、まったく同じであった。

 本編の中でもたびたび、奇妙な通信を繋いできた無線機ではあったが、道理で、過去や異空間と交信できるはずである。元々、ミッキーの魔法がかかっていたのか——そんなものが今、手持ちにあるという事実に、デイビスは不思議な因果を感じずにはいられない。

「最初に出会った日に、カメリアと俺でひとつずつ、無線機を買ってくれたんだよなあ。あの時、俺は海底レースでスッちまったばかりで、金がなかったから」

「デイビスって、昔から、まるでせいちょおしていないんだねえ」

「グーフィー、これって、スペアを持っていないか? 俺に売って欲しいんだが」

「お金なんて、いらないよお。ボクとキミとの、仲じゃないか」

「ありがとう! よし、これで過去に遡って、あの時買い物していた店の棚に、こっそり置いてくれば——」

 勝手にペラペラと捲し立てながら、そこまで完璧な算段を組み立てていたデイビスは、一瞬の沈黙の後で、いきなり頭を抱えて、崩れ落ちた。

「って、ドリームフライヤーがないから、タイムスリップできないんだった——」

 十数年前、カメリアが気軽にこっちに来ていた時期ならともかく、今はそんな手段など、あるはずもない。
 しかし暗いオーラを漂わせるデイビスを見つめながら、グーフィーは首を傾げて、こともなげに言った。

「だいじょおぶだよ。エレクトリック・レエルウェイに、乗れば良いじゃない」

「エレクトリック・レールウェイ?」

 思わず、復唱するデイビス。現在、まさに大航空時代を迎えつつあるこのポート・ディスカバリーでは、すでに時代遅れとなりつつある乗り物だが、それでも長年に渡って人々に親しまれているその電車は、マリーナに根づいた思い出深い存在であるだけではなく、もうひとつ、重大な価値を秘めていたのである。

「ああ、なるほど、確かにあれは時空を超えるな。でも今のところ、1912年のニューヨークにしか行けないぞ?」

「だから、そこは、きょおこおしゅだん。ポオト・ディスカバリイを抜け出る前に、線路に飛び降りれば、いいんだよ。だいたい、十五年くらい、遡ったくらいの場所だと、計算が合うんじゃない?」

「……そ、そうしたら帰りは」

「同じように、線路からエレクトリック・レエルウェイへ、こっそり飛び乗るしかないねえ」

 実にグーフィーらしい、トンデモな発想だったが、あののろのろとした徐行なら、確かにそれは可能である。いや、本当に過去に戻りたいなら、むしろそれに賭けるしかない。

「……グーフィー、あんた、天才だぜ」

「いやあいやあ、それほどでもお。それじゃ、善は急げ、だね」

 言いながら、鏡の前で、ぱたぱたと炭を払い、身だしなみを整えるグーフィー。その横から、デイビスもしきりに髪を整えたり、ネクタイの位置を確認したりするので、鏡の使える面積が半分しかない。グーフィーはうんざりとして、

「ちょっとお、何? 邪魔なんだけど」

「いやだって、十数年ぶりに、友達に会うわけだし」

「会わないよお、ボクたちは。せいぜい、とおくから見守るだけ!」

 グーフィーはぐいぐいとデイビスの白衣を引っ張ると、机の引き出しから、奇妙な形のサングラスを取り出した。

「なんだよ、これ」

「変装グッズ」

「変装すんのかよ!?」

「ボクはともかく、デイビスの顔は、当時のポオト・ディスカバリイの人たちにも知られちゃっているもの。同じ時代に、同じ人間が二人いたら、まずいでしょ?」

「まあ……一理あるけど。でもさ、せっかく再会できる機会なんだし、カメリアと、一言くらい喋っても」

「ダメ!」

 グーフィーは厳しく言って、デイビスの顔に乱暴にサングラスをかけさせる。

「そもそもデイビス、もうおじさんだよ? 二十近くも下の、カメリアに話しかけたって、絶対に絶対に、変な顔をされる、だけだってば」

「それは、その、そうだけど……
 あ、でも、ちらっと視界に映るかもしれねえし、小汚いおっさんって思われたらどうしよう。それにこのサングラス、ちょっとダサい——」

「もう、そんなのどおでもいいから! 早く、行くよー!」

 そんなわけで、ノコノコとエレクトリック・レールウェイに向かった二人は、事前に計算した箇所にきた時点で、タイミングを見計らい、えいっとドアを開けて飛び降りた。線路にべちりと落ちた二人は、これって犯罪かなあ、と思いつつ、高架線の柱を伝って、つるるっと地面に降り立つ。

「案外、楽に行けたねえ」

「作者が書くの面倒くさがって、サボった結果だな」

「さて、ここから——」

「確か、フローティングシティのフェスティバルに向かったはずだ。よし、移動するぞ!」

 ふたたび、エレクトリック・レールウェイに並んだ二人は、今度はニューヨークではなく、フローティングシティへ。フェスティバルに期待して、TODAYを広げながら駅に降りてゆく人々に紛れて、頭上を見ると、夕空に染まりかけた光芒が、薄桃色と黄金に染まりながら、限りなく広がっていた。そして、その光に紛れて、遠い轟音をあげて飛翔してゆく小型飛行機がひとつ。

「あっ、あれだー!」

 当時のデイビスとカメリアを乗せた、ウインドライダーである。着陸が近いと見え、徐々に高度を落としてゆくそれは、一瞬、高らかに太陽を反射しながら、今はもうない、CWC管轄の格納庫へと吸い寄せられていった。

「わあ、あれに、若い頃のデイビスが乗っているのかあ。なんだか、かんどおしちゃうねえ」

「やっべえ。急に、ドキドキしてきたな」

 もしかしたらカメリアに会うよりも、過去の自分に会う方が緊張するのかもしれない。人混みの中、弾む左胸を押さえてそわそわと歩き回りつつ、二人がこのフローティングシティに現れるのを待つ。

(しかし、懐かしいな——)

 走馬灯のめぐるような思いに駆られて、デイビスは周囲を見回した。

 視線を投げた先には、このフローティングシティの顔とも言える、風力発電所。元の時代ではすでに、サボニウス式風車を発展させた、二重の螺旋構造状の風車に取って代わられているが、当時は垂直軸ダリウス型の、四本のオールに似たブレードを取り付けた、円環状の風車であった。色もまるで違い、ドクター・コミネの協力によりストームライダーの後継システムを発明した、海洋生物研究所のマリンブルーではなく、CWCのテーマカラーであった、錆びついたように鈍い、かつての美しい黄金である。フラッグにもCWCのエンブレムがはためき、金属製の椰子の木は、陽射しの強いマリーナから、人々を日陰に守り続けていた。

 実に科学の発展とは早いもので、このCWCが覇権を握っていた時代から、数十年の年月をかけて、ストームは無人のシーライダーから送信され続ける膨大な海洋データとAIにより、監視・管理されるようになり、このポート・ディスカバリー近海を潤わせる「天然資源」として扱われるようになっていた。実際の襲来時には、ポート・ディスカバリー上空にシールドが張られる。この開発には天文学的な費用を必要としたのだが、天文台から激しく荒れ狂うストームを観察する、「ストームツアーズ」なる高額のツアーを敢行することで、何とかこの費用の補填に充てたらしい。いかにも、ちゃっかり者らしいマリーナの住人の考えそうなことだが——しかしCWCは、今やストームライダーのミッションを終え、気象研究とその利用へと使命を切り替えていた。その頃には、デイビスはすでにCWCを退所し、自分の宇宙航空工学研究所を立ちあげている。あのストームライダーに劣らぬ飛行機を創りたい、という想いがあってのことだが、しかしやはり、自分の二十代を捧げたこの頃のCWCには、語るに尽くせない、特別な思い入れがあった。

(青春だったな。ストームライダーは——)

 デイビスは、黄金の混じり始めた蒼穹を見ながら、そんな感傷に囚われる。

 今もあの飛行機に乗りたい、という欲望は溢れる。ストームライダーは、けして忘れられなどしない、愛用機という言葉でも片付けられない、大切な相棒だったのだ。時が流れるということは、そうした時代に根づく、大切なものを失いながらも、前へ歩き続けるということだ。激しい寂しさも、二度と戻れない記憶も、目の前に迫りくる喪失を受け入れるか否かに関わらず、過去の方向へと押し流されてゆく。いつまでもストームライダーに乗っていたかった——けれどもマリーナは、その道を歩まなかったし、自分自身も、別の新たな一歩を選び、振り返ることを拒絶したのだった。

 生き続けるのは、思い出だけ。二度と復活することもなく、触れられることもなく。けれどもけして消えない場所で、それは生きている。

 時々、無性にその事実が切なくなるが、彼はいつもそのように言い聞かせて、自分を納得させてきた。そして、過去を見つめる彼の胸に込みあげるのは、どの時代においてもつらぬき続けてきた、故郷への愛だった。ポート・ディスカバリーは、常に未来を歩み、変革を求めていた。何よりも誇りに思っていたその主題こそが、例え彼の最も記憶に深い思い出から離れてゆこうとも、マリーナの根底を貫く、ただひとつの変わらないものだったのだ。

「デイビスう」

「ん?」

「物思いに耽っているとこ、悪いんだけど。この時代のカメリアとデイビスって、あれじゃない?」

 グーフィーがちょいちょいと指差す先には、何やら大声で会話している男女の一組。彼らは気づいていないのかもしれないが、そのボケとツッコミの入り乱れ具合といい、着ている服装といい、人通りの多い中でもハチャメチャに目立っていた。そして不意に、ピーーーーー、と甲高い口笛が吹いたかと思うと、大空から、美しい隼が滑空してくる。

 青い目の隈取り————アレッタだ!

「グーフィー、あいつらだ! 間違いない!」

「で、デイビス、首絞めないで。ぐるぢい」

 思わず、グーフィーの襟首を掴んでぐわんぐわんと振り乱すデイビス。グーフィーは泡を吹きそうになっていたが、デイビスは感動でそんなことは目に入らず、すっかり感極まった声をあげていた。

「グーフィー、あいつだよ、あいつ! 俺だ! 見ろよ、みんなにめっちゃ羨望の眼差しで見られてる! 俺がキャプテンをやっていた頃だ!」

「もお、分かったからあ。よし、近づいていってみようよお」

 彼らは泥棒のようにこそこそとした足取りで、その二人組に接近してゆくと、こそっとエキウムの植木の陰に隠れ、血走った眼差しを送って観察する。

 わ、若っ! デイビスは目を見開いた。うわっ、すげー懐かしいカッコしてる、CWCのキャプテン・スーツだ。つーか俺、思ってたより数倍カッコいいな。しみじみ見つめてみると、映画俳優のようなオーラがあり、我ながら惚れ惚れとしてしまう。

「やべえな、グーフィー、見たか? 俺の顔の黄金期だ」

「答えづらいことを言うのは、やめてよお」

「で、もう一人の方は、と——」

 探すまでもなく、若いデイビスの、呆れたような目線を辿れば、すぐに彼女は見つかった。

 踊るようにアレッタと戯れている、栗色の巻き髪の女の子。

 どきっ、とした。くるくると楽しそうに遊んでいる姿の一瞬一瞬が、コマ送りのようにまばゆく胸に焼きついてゆく。アンティークを思わせる海色のドレスが、ふわりと広がった。

「何でもいいのよ。だって、戻ってきてくれたんですもの。私のアレッタが!」

 間違いない。十数年ぶりに聞いた、あの風のような声。


 カメリアの、声だ————


「やあシニョリータ、良い服を着ているね。前世期の年代物かい」

「このドレス? 素敵でしょう。動きやすくて、お気に入りなの」

 チュロスワゴンの店員に話しかけられ、カメリアは笑いながら、慌てて物陰に隠れたデイビスの前を通り過ぎる。鼓動が死にそうに高鳴った。思わず背を向け、視線を地面に落としてしまったデイビスとは裏腹に、カメリアは嬉々として、話しかけてきた男と会話し、若いデイビスが、溜め息をつきながらその後を追いかけていった。

「あれ、デイビスう?」

「…………」

「ねえってば。カメリアのこと、見なくていいの?」

「あ、ああ。ちょっと、精神が落ち着いたらな」

 俯いたままのデイビスは、しばらく鼓動が落ち着くのを待って震えていたが、やがて、自分の懐に手を突っ込み、いつも持ち歩いているそれを取り出す。その手の中には、煙草の箱とともに、かさ、と切り取られた本の挿絵が握られていた。仄かに体温を吸ったそれを、広げてみる。荒い印刷の彼方に、微かに見出せる面影。それは、生きている彼女のあの姿と、確かに同じものだった。

 彼女と別れてからは、科学書や歴史書に載っている肖像画の姿を見つめてきただけ。写真技術がまだ発展途上である時代に生きていたから、その正確な面影など現存せず、特に青年期については、絵画すらもろくに残されていなかった。その面影を忘れたくなくて、必死に書物を掻き集め、彼女のことを調べあげた。別れ際の、「世界平和の礎となる」という言葉を、カメリアは忠実に守り続けたのだ——その後五十年以上、死に至るまで、本当に慈善活動と科学研究、そして飛行の夢を後世に伝える館長職に身を費やしたのだということは、どの本においても強調されている事実だった。そして、この世に生きている人間の中でただ一人、デイビスだけが知っていたのだ。彼女の残した功績が、果たして、どのような思いによって築きあげられたのかということも。



 あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜……



「デイビス。ティッシュいる?」

「あ、ありがと。ごめんな、ちょっと色々……思い出しちまって」

 グーフィーの差し出してくれるそれを、しゅっ、と引き出しながら、鼻を啜る。

(ていうか俺、ストーカーみたいだよな。ずっとこうやって、あいつの後ろから追いかけてて)

 実際に追跡ストーキングしているのだから、「みたい」も何もないのだが。しかしこうして見ると、結構似合っていない訳でもない。おいおい、早く口説き落とせよ、呑気に散歩している場合じゃないだろ、と青年の頃の自分に念波を送ってみるものの、無論伝わるわけもなく。

「凄い活気ね!」

「今日はとりわけ、人が多いな。いったん別行動にして、後から合流するか?」

「あら、せっかくだもの。一緒に行きましょうよ」

「俺も案内してやりたいのは山々なんだが、この人混みじゃ、ろくに身動きも取れないだろ」

「デイビス。…………………あなた、まさか」

 カメリアはハッと息を呑んで、両手で口を覆った。

「私と一緒に行くのが、恥ずかしいのね。みんなにからかわれ、肘で突つかれ。あらぬ関係を疑われて」

「違うっ!!!!」

 あー懐かし、やっぱこいつ、アホだな。かく、と肩を落としながら、割と記憶から抜け落ちていた部分を補完する。それとともに、ブランクによって美化されていた胸の中の感動も、スッと冷めた。落ち着きを取り戻したデイビスは、やおら拳を握り締めて立ちあがる。

「よ、よし。あいつらを尾行するぞ、グーフィー」

「これって、なんだか、悪趣味だよねーえ」

「うるせー。仕方ねえだろ、ほかに手段がないんだから」

 そんなわけで、ポート・ディスカバリーの夕暮れのフェスティバルを楽しむデイビス(青年)とカメリア、そこから二十メートルほど離れて、こそこそと隠れながら追うデイビス(中年)とグーフィー。最初はどう見ても、カメリアがあちこち振り回していたが、やがてデイビス(青年)も調子に乗ってきたのか、走って他のところに連れて行ったり、はしゃぎ回ったりしている。く、くそ、二十代の俺、元気だな。何度となく見失いそうになりながらも、必死に追いかけ続ける間、胸に抑え切れない感情が込みあげてきた。

 まるで、すでに過ぎ去ったあの日が、もう一度目の前に繰り広がり、同じ時を辿っているような。
 そしてこのまま、この一日は永遠に終わらないのではないかという、錯覚。

「はあ、こんなに楽しんでたんだな、俺。本当は、謹慎食らった直後なんだけどなあ」

「……ボ、ボクの方は、全然見えないんだけど、デイビスう。さすがに遠すぎない?」

「だ、だめだよ、グーフィー。これ以上近づいたら、気付かれちまうかもしれないだろ?」

「自意識かじょおだよ、気付かれるわけ、ないってばあ」

 その時、なぜか若いデイビスが軽く手を振って、カメリアを海上遊歩道に置き去りにした。それはまったく記憶から抜け落ちている光景で、突然の退場に、デイビスは戸惑って?マークを飛ばす。

「あ、あれ? 俺、何しに行ったんだ? 小便か?」

「デイビス、チャンス! 今だ!」

「え、え、何のチャンスなんだよ?」

 どん、とグーフィーが背中を押し、よろめくようにして前に進むデイビス。振り返ると、ぐっと親指を突き立てたグーフィーが、力強い笑いを浮かべていた。

「会話しておいで!」

「えっ、話すのは駄目なんだろ?」

「今は、若い方のデイビスと鉢合わせしないだろおから、だいじょおぶ!」

「て、適当だな、判定が……」

 戸惑うデイビスに向かって、グーフィーは、ふっと声を低めると、彼の心を慮るように囁いた。

「ちゃんと、お別れをしておいで。そうしないと、心の中の寂しさは、いつまでも消えないよ」


 ————ああ、そうか。

 デイビスは思う。
 トボけているように見えて、グーフィーはいつだって、人の心に敏感だ。

 だから、ロストリバー・デルタで出会って以来、十数年も友達でい続けたんだ。
 彼は、きっと冗談にすぎないんだろう、と笑い飛ばした口約束を守り、本当にポート・ディスカバリーに研究所を構え、俺に会いにきてくれた。目の前に堂々と立つ研究所に、ポカーンと呆気に取られた俺に向かって、誇らしげに握手を求めるグーフィーを見たあの日から。

 彼は俺の、かけがえのない親友だった——

「……よ、よーし。それじゃ、行ってくる」

「頑張れ、デイビス!」

 もしも、失ったものの代わりに、得たものがあったとすれば。
 そのうちのひとつは、グーフィーとの友情だったのかもしれない。
 それは、この美しい過去と引き換えでなければ、けして得られなかったものかもしれない。

 そっと、一歩。
 夕暮れの長い影を引きながら、デイビスは初めて、隠れることなくカメリアへと歩み寄る。

 海上遊歩道で、銀色の手すりに掴まり、しばらく興味深そうに海を覗き込んでいたカメリアは、やがてゆっくりとポケットを探ると、一枚のハンカチを取り出した。あ、俺が初対面の時に貸してやったハンカチだ、と思い出すデイビス。手の中のその布切れに眼差しを落としながら、不意に、カメリアはそれに口づけるように顔を埋め、静かな微笑を浮かべた。何か、込みあげる嬉しさに身を委ねるような。ささやかな歓喜を噛み締めるような。そんな秘密めいた、くすぐったい微笑みだった。

 何を考えているんだろう?
 今まで一度も見たことのない表情だった。

 それから、ハンカチを手に持ったまま、顔をあげて、黄金の美しい空を見た。まるで昨日もそのしぐさを眺めていたように、歳月の隔たりを感じずに彼女を見つめていると、海から強めの汐風が吹いて、そのハンカチがするりと飛ばされる。あ、とちいさな声が聞こえたのと同時に、ふわりと、それを宙で受け止める手が。

「…………」

 やべ、思わず掴んじまった。カメリアの鳶色の眼差しが、彼の瞳を覗き込み、デイビスの緑色の眼差しが、彼女の瞳を映し込んだ。互いに微かに見開かれたその目が、まるで時の止まったように、相手へと吸い込まれてゆく。

 も、もしかして、見透かされてるんじゃねえだろうな!? デイビスは慌てて、サングラスのブリッジを押さえた。大丈夫、ちゃんと変装できてる——それなら、後は会話で誤魔化すしかない。

「き、気を付けなくっちゃいけないよ。この辺りは、汐風が強いからね。沖の方に飛んでいってしまったら、誰も回収することができないから。ははは、泳いで取りに行くなら、別だけど」

 うをー、なんなんだ、この口調は。思いっきり動転しながらも、デイビスは急いでどうでもいいことを捲し立てながら、自分のかつてのハンカチを差し出す。背後で、あちゃー、とグーフィーが頭に手を当てていた。

 カメリアは放心したように瞬きをして、それを受け取ったが、そんな彼女の肩の上に載ったアレッタはじりじりと、黒い目を尖らせ、慎重にデイビスと向かい合う。

 た、頼むアレッタ、俺たちは一度、心を通じ合わせた仲だろ。今だけは、大人しくしていてくれよな———

 そんな祈りが通じたのかは分からないが、ぐるる、と、微かに喉を鳴らすだけで、アレッタは首を埋めた。それを聞いて、ようやくカメリアは満面の笑みを浮かべ、少し頰を染めながら、目の前のデイビスに礼を言った。

「ありがとうございます。これは、私の初めての友達から借りたものなの。ちゃんと、大切に洗って返さなくっちゃ」

 う。
 じわ〜っときながらも、デイビスは慌てて上を向いて、薄く込みあげ始める涙を堪えた。今まで、もう二度と会えることはないと知りながらも研究を重ねてきた十数年が、その一言で、一気に報われた気がした。

「そ、それは、キャプテン・デイビスくんのことかな?」

「ご存知なんですか? ええ、大切な友達なんです。彼の方は、どう思っているか分からないけど」

(う〜〜〜〜〜ん……)

 デイビスは腕組みし、眉根に皺を寄せた。この頃の俺、カメリアのこと、なんて思ってたかな? 正直、美人じゃないし、面倒なことばかり言うし、ゆきずりの変人、くらいにしか考えていなかった気がする。そこから当分は紆余曲折が続いてゆくのだが、とにかく、その友情はだいぶ先まで一方通行だぜ、カメリア、と胸の中で懺悔するしかない。

「空を見ていたのかい?」

「ええ。あなたも、空が好きなんですか?」

「あ、ああっ。ワタシは何を隠そう、宇宙航空工学の博士だからね」

「ウチュウコウクウコウガク?」

「え、ええっと、そうだな。飛行機や、宇宙開発に関する工学のことだよ」

「まあ——人類はやがて、宇宙にまで飛び出すことができるんですか」

 黄昏の繰り広がる空を、綿雲は黄金の翳を纏わせながら、遙けき天へと吸い込まれてゆく。そのうちのひとつを指して、カメリアは虚空の中に、軽やかな声を解き放つ。

「あの雲の、さらに向こう?」

「そうだね。ロケットっていう乗り物を飛ばして、大気圏を突き抜けるんだ」

「宇宙に行ったら、地球はどんな風に見えるんですか?」

「そうだな。青くて、真ん丸で、そこら中を真っ白な雲が渦巻いていて。大陸には、緑や、山脈が広がっているのが見える。夜には、点々と広がる都市の明かりまで」

 デイビスは、ポケットから携帯機を取り出すと、そこに映し出されている画像をカメリアに見せてやった。

「わあ。これが、地球?」

「そ。俺たちの住んでいる、地球だ」

「こんなに……こんなに綺麗なのね。辛いことも、悲しいこともたくさんあるはずなのに、遠くから見ると、こんなに綺麗なのね——」

 カメリアは感心したように見つめ、堪え切れなかった熱い吐息をこぼした。

「凄えだろ? ワクワクするだろ。不思議だよな、こんな水の惑星アクア・スフィアの中に、ドキドキするような冒険も、壮大なイマジネーションもあるなんて。もしかしたら、他の星にも、俺たちみたいな生き物がいるのかもしれない。美しい星を巡るツアーをしたり、悪の帝国軍との戦いを繰り広げたり。そんな、俺たちの知らないロマンが、もっともっと膨大に広がっているかもしれないんだ」

「素敵……ポート・ディスカバリーは、そんなことまで、研究しているんですか」

「いや、ここはストームが頻繁にやってくる街だからな、宇宙開発には向いていないんだ。
 もっと南の方に、トゥモローランドってエリアがあってな、そこでは街全体が宇宙への移住計画を進めていて、立派な宇宙港まであるんだよ。それでさ、スペース・マウンテンっていう、エネルギー・ボールを糧にした最先端のロケットが、カッコいいんだぜ。宇宙船からエネルギーを受け取って、そこからは全速力。ゲストたちに素晴らしい宇宙飛行を——」

 そこまで語り続けたデイビスは、まじまじと自分を見つめてくるカメリアの遠慮のない眼差しに、ハッと我に返り、自分の口調が通常のそれへと戻りかけていたことに気づく。

「す、すまなかったね。専門のことを語ろうとすると、どうも、興奮してしまって」

「あら、とんでもありませんわ。大層面白く拝聴していました」

 カメリアはにこにことして、ちいさく拍手した。見透かされていない、よ、な? にしても、ふたたび、バクバクと動き始める自分の心臓を抑え切れない。

「私、もう少し未来に生まれたかったな」

 微かな葡萄色に染まり始めた蒼穹を見あげ、その睫毛を寂しい黄金に光らせながら、カメリアがぽつりと呟いた。

「こんなにも、世界が広いなら。どこまでもどこまでも、その果てへと旅してゆける、自由な時代に生まれてみたかった。そうしたら、もっともっと、たくさんのことを体験できたはずなのに」

「そんなことはないよ。君は、君の時代でやるべきことがあるから。だから、その時空に生まれたんだ」

「あなたも?」

「ワッ、ワタシも、もちろん、大事な使命があるさ」

 キャラ作り失敗したなー、と思いつつ、デイビスは慣れぬ言葉遣いで、必死にカメリアへと返事を紡ぐ。

「君に、その手の中のハンカチを返すべき人がいるように。俺にも、生涯に渡って、恩を返さなければならない人がいる」

「…………」

 カメリアは不思議そうに、デイビスのサングラスの向こうの瞳を見つめていたが、やがて、

「……恩返し……」

と、何か意義深いような低い声で、風の中に言葉を紡いだ。

「カメリアー! 手を貸してくれよ」

「あっ。デイビス」

 至極嬉しそうに、カメリアは呼び声の方を振り向いて、ふわふわと屈託のない笑顔を浮かべた。
 
「もう行かなくちゃ。さようなら、素敵な科学者さん」

「あ、ああ。さよなら、お嬢さん」

 これで別れたら。
 本当にもう、二度と会えない。
 生きている限り、声を聞くことも、言葉を交わすこともできない。

 ————カメリア、と呼びかけることさえ叶わない。

 しかしデイビスは、ぐっと口をつぐむと、ゆっくりと背を向け、空を見つめながら大きく溜め息を吐いた。

 これで良いんだ。もう一度、笑顔も見られたし、ちゃんと、別れも告げられた。これ以上、何を求めることがあるだろう。与えられた機会は、これで、使い切ったんだ。

 デイビスは、小走りに自分から遠ざかってゆく足音を、耳を澄ませて聞いていた。大勢の通行人が、ざわざわと囲うようにして、多くのさざめきの間にその音を紛らせてゆく。風が、柔らかに方向を変えて、彼の白衣の裾を翻し、静かなはためきを響かせていた。安心する一方で、どこか、うっすらとした寂しさが湧いてきた。

 その時、背後にいる男の胸元から、ふわ、と漂う煙草の残り香に。
 カメリアは、行きかけた足を止め、柔らかな巻き髪をひるがえしながら、汐風の中で振り返った。




「————————デイビス……?」




 後ろから呼びかけられた、その名に。

 振り返れなかった。
 だって、その呼びかけに反応したら、すべてが終わってしまう。散り散りに心が砕け散って、もう二度と戻れはしないだろう。

 ここで振り向いたら、だめなんだ。

 震える心を叱咤して、けしてその名前を呼ばないようにと、自分を律するので精一杯だった。はためく白衣の音が、耳に纏いつくように、大きく、鬼気迫るように聞こえていた。静かに拳を握り締めるデイビスのそばで、遊歩道の手すりの向こう側に見える海面が、夕風に乱れ、千々の煌めきを撒き散らしていた。

「おい、カメリア、何やってんだよ? 誰か変な奴でもいたのか?」

 お、俺〜〜〜。空気読めよ、と青筋を立てる背後で、若いデイビスは能天気にカメリアに訊く。

「ありがとう。これが噂の、寿司ロール?」

「シュリンプ&チキンカツだって。また珍妙な食いモン、考えるよなー。はい、お釣り」

 あ〜〜〜、そうだ、この時、稀に見る金欠だったんだ。みるみるうちに恥ずかしい過去を思い出して赤面するデイビス。おい馬鹿、平然と人の金を遣って、寿司ロールなんか喰ってるんじゃねえ、と過去の自分を呪い殺したくなる気持ちで、彼は両手で顔を覆う。

「ねえ、あなたって、叔父様はいる?」

「あ? 俺にゃ叔母しかいねえよ。なんで?」

「さっき、宇宙航空工学の博士の方が話しかけてくれたんだけどね。なんだか、あなたに似ている気がしたの」

「俺くらいのイケメンはそうそういねえだろ〜」

「でもそっくりだったのよ、それで目の色を見ようと思ったんだけど、サングラスをしていて」

「へーえ、サングラスしてたの? こんな夕方に? ポート・ディスカバリーって、やっぱ、変人しかいねえなあ」

 なんだかこいつ、叩きのめしたくなるウザさだな、とピキピキ苛立ってくるデイビス。お、俺だって、好きこのんでサングラスしてるわけじゃねえや、てめえがいるから慮ってこっちが変装してやっているんだろうが。

(まあこの頃の俺って、精神的に荒れてたしな。仕方ねえか)

 そう言い聞かせて、仕方なしにグーフィーの元へ帰ると、よくやったねえ、と彼はデイビスの背中を叩いて、優しく迎え入れてくれた。

「だいじょおぶだった?」

「うん、もう思い残すことはない。
 後は、無線機だな。確かこの後、スカイウォッチャー・スーヴェニアに移動したはずなんだよな」

「じゃ、先回りして、待ち伏せしていよおか」

 グーフィーとデイビスは、大急ぎでワゴンショップに向かうと、若いデイビスとカメリアが会話しながら近寄ってくるのを見計らって、そっと腕を伸ばし、無線機の陳列の一番前に、グーフィーから貰った魔法のトランシーバーを置いた。

 こそこそと棚に隠れながら様子を窺っていると、向こう側から、こんな声が聞こえてくる。

「大声を上げなくても、お話ができるの? これを持っているだけでいいのね?」

 あー、そうそう。聞き覚えのある台詞を耳にして、ようやくデイビスはほっと胸を撫で下ろし、特徴的な緑の目を守ってくれたサングラスを外しながら、溜め息を吐いた。

「やれやれ、これで何とか、穴は塞げたかな」

「よかったねえ」

「付き合ってもらって悪かったな、グーフィー。それじゃあ、元の時代に帰ろうか。お礼と言っちゃ何だけど、一杯奢るぜ」

「それって、ただ単に、キミが飲みたいだけでしょお?」

「ま、飲まないと、やってらんねえ気分ではあるかな」

 小声で軽口を叩きながら、ふたたび、遠ざかってゆく二人組を見つめる。かつてのデイビスは、得意満面の様子で、カメリアに故郷の情報を披露していた。そんな自己承認欲求丸出しの姿を見ていると、だんだん恥ずかしくなってくるのだが、カメリアはカメリアで、それ以上に楽しそうにころころと笑って、あっちに行きたい、こっちを見たい、とこれまた好き勝手に我が儘を言っている。

 そんな様子を見守っていると、幸せだったんだろうな、と思う。たくさんの夢があって、たくさんの未知との出会いがあった。この頃はまだ気づいていなかっただろうが、きっとこの時、自分たちは、人生の輝きの季節を歩いていたのだ。そしてこれから、世界中をめぐる冒険が待っている。

 グーフィーは迷ったように、二人の姿を見送っていたが、やがて躊躇いがちに、そっと問いかけた。

「話しかけなくても、いいんだね?」

 グーフィーの言葉に、デイビスは、ぴく、と肩を震わせる。

 暮れなずんだ菫色の空の下、勇壮なマーチが、スピーカーから流れ出ていた。カメリアとかつての自分は、人波に紛れて遠ざかり、赤いアスファルトは、並んで歩く彼らの影を、色濃く地面へと流していた。

 途方もない孤独感を、かき消せなかった。

 あそこにいる俺は、これから物語が始まって。
 ここにいる俺は、もう、彼女との物語をとうの昔に終えてしまった。

 その間に広がるのは、空を翔け、世界をめぐった夢のような日々。

 けれども。
 その後に始まった俺自身の物語が、彼女と紡いだあの物語に劣るなどと、誰が言える?
 一日と一日の価値を、比べることなんてけしてできない。それを積み重ねてきた軌跡を放り出して、過去に戻りたいと願うのは、あってはならないことだ。
 今の俺は、叶えるべき夢があって。そしてこの時代の俺は、まもなく、それを見つける旅に出る。

 デイビスは微笑んで、汐風の中でグーフィーと対峙した。

「ああ。だって俺たちはこれから、世界中を冒険して、数えきれないほどの会話を交わすから。それがほんの僅かな間だったとしても、俺にはけして忘れられない宝物なんだ」

 空に真っ直ぐ伸びてゆく筋雲が、まるで飛行機の残したそれのように、黄昏の中で薄く輝いていた。その色彩を瞳に映したグーフィーが、とん、とデイビスの肩に片手を置く。それに穏やかに笑うと、グーフィーも静かに、表情を和らげた。

「……そうだね。思い出は、きっと、未来に歩いてゆくための、大切な一歩だよ」

 グーフィーは、自分の心を分かっている。だから何も言わないでいてくれるんだ、と信じて、夕闇が近づいてきている街の匂いを嗅いだ。エンジンオイルや、潮や、微かなストロベリー・ポップコーンの匂いが、風の中に入り混じった。

 美しい街だ、と彼女が震える声で呟いていたのを、懐かしく思い出す。あの時、彼女は驚嘆していたのだろう。未来の世界が、これほどまでに平和なことを知って。


 ————ああ、美しい街だ。
 そして、この日は、本当に美しい一日だった。


 だって、すべての始まりだったのだから。
 カメリアは、この日を守るために、残りの人生を費やし、俺は、この日から出発して、残りの人生を変えた。

 まるで、過去と未来が、手を握り交わすように。
 誰にも語られることのない二人の邂逅は、美しい、この春の中の出来事。

 願わくば、この一日が、けして記憶から消え去らないようにと。デイビスは夕暮れの空気を大きく吸って、世界中に満ち足りている、茜色の輝かしい魔法に身を委ねた。痛みも、寂しさも、それ自体がすでに大いなる記憶だった。

(生きてゆかなきゃ。俺の生きること、それ自体が、この過去の日々を生きてきた証なんだ)

 あの人から、確かに、夢を受け継いだ。
 この胸の中には、彼女の夢が生きている。その願いは、途方もない遠くにあるのかもしれないけれど。それでも、思い描くたび、自分は幸せになれた。

 ———彼女に負けないように、俺も、新しい飛行機を創って。世界中の人々を幸せにしたい。

 それがキャプテン・デイビスの描く、新しい夢の物語だった。それを叶えるまでは、まだまだ死ねはしないな、とデイビスは微笑む。彼女の役目は終わり、物語は受け継がれた。そして今度は、この俺が、未来を切り開いてゆく番だ。

「ボク、ついでに、記念写真撮っちゃったあ。カメリアってえ、キミの隣にいるとき、すっごく幸せそうな顔をしてるんだねえ」

「カメリアの写真っ!?」

 それを聞くなり、ぐるん、と物凄い速度で振り向くデイビス。そのエクソシストばりの勢いにぎょっとしたグーフィーは、震える手で、持っていたチェキを渡した。

 ……う、映ってる。若き日の俺とカメリアが、無線機を耳にあてて、仲良く会話しているところ。オイオイ、めちゃくちゃ良い写真じゃねえか。まるで東京ディズニーシーに遊びにきた、初々しいカップルのようだ。

「ほしい?」

「……ほ、ほしい」

「どうしよっかな〜」

「頼む。言い値で買うから」

「どおせ、大したお金も出せないんでしょー。
 あげても良いけど、ひとつ約束してくれる?」

 デイビスは不思議そうに顔をあげ、彼が告げるその条件に、静かに耳を傾けた。



「どこに行っても、キミの美しい故郷、ポオト・ディスカバリイのことを忘れないで。そして、ずっとずっと、これからも友達でいてね。デイビス」



 デイビスは、マリーナのざわめきの中で、しばらくグーフィーと見つめあっていたが、やがて、あのニッという挑戦的な笑みを浮かべると、力強く手を伸ばして、誓いの握手を交わした。


「ああ。どこに行ったって、どんなに月日が経ったって、俺は俺だ。みんなの思い出の中に生きているヒーローの俺と、ちっとも変わらないさ。キャプテン・デイビスは、永遠なんだぜ」


 ————約束を、交わそう。

 どこにいっても、一番大切なものを守り続けられるように。
 いつの日かメディテレーニアン・ハーバーから帰郷し、ふたたびグーフィーに会いに行った時も、彼とこうして笑い合えるように。

 二人で並んで歩きながら、夕空の下で交わした笑顔は。きっと、この春の日を最初に経験したあの頃に、けして引けを取らない思い出になるだろう。

 どんなに寂しくても、懐かしくても。
 俺の選んだ道は、けして、間違っていなかったんだ———

「でも、よかったねえ。カメリアって、生前の写真が、残っていないもんねえ」

「いや、家に、エクスペディション・フォトアーカイヴで買った写真があるから。穴に落ちていってる瞬間なんで、ブレが凄いけど」

14話のヤツかあ。よかったね、カメリア・コレクションが増えて」

「ああ。しかし隠し撮りを入手するなんて、これで俺もますます、ストーカーっぽくなったな」

「しゅうねんが気持ち悪い」

 その鼻息の荒さに若干ヒきながらも、ゆるりとエレクトリック・レールウェイに向かうグーフィーと、最後に一瞬だけ、自分の故郷を振り返るデイビス。

 彼らはまだ、明日からの人生に、何が待ち受けているのかも知らない。まっさらだった。まだ何も書かれていない本の如く、その白紙は、彼らのためにこそ開かれていた。この先、何を書くのかも、何を紡ぐのかも自由で。明日のすべては許され、託され、解き放たれている。

 夕陽に照らされるマリーナを反射する、美しい真紅の電車。まるで出航の準備ができたように、高らかな鐘を鳴らす。赤いアスファルトが煌めき、太陽に照らし出されて、遠い道のりを描いていた。汐風は終わらない。アクアトピアの歓声を引き連れて、この祝祭を、永遠のうちに刻み込む。

 デイビスは、眩しい夕暮れの光の中で、輝くばかりに笑って言った。




「さあ、行こうぜ、グーフィー。俺たちの未来へ!」








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