中国のベトナム語 -京語を探る 語彙編-
前回の記事では「中国領内で話される少数民族言語としての京語(=ベトナム語)の会話集を東方書店で購入した」という話をした。
今回から京語とベトナム語を具体的に比較して、どのような違いがあるのかを見ていこう。言語学の専門的な研究では、異なる言語を比較する際には「音声→語彙→文法」の順に着手するのがセオリーだ。しかし、音声や文法の比較は(特にベトナム語が分からない)専門外の人にはやや退屈なので、専門外の人でも実感が湧きやすい語彙の比較からまず始めていこう。
具体的な比較を行う前に、自分以外の誰かによる言語記述の報告を利用する際の注意点を簡単に書いておく。ただ、言語学の方法論に興味がなければ読み飛ばしてもかまわない。
自分で集めていない記述資料を利用する際の注意点
今回購入した京語の会話集のように言語記述の資料や報告は世界中で大量に出版されているのだが、そのような記述は常に正確性が担保されていて完全に信頼できるのだろうか?私の基本的な態度としては、このような言語記述の内容を盲目的に信じるのは結構危険だと感じている。理由を2つ挙げよう。
まず、馴染みのない言語の記述する時は誤字が多くなる。例えば、この京語会話集ではベトナム語アルファベットであるクォックグーを基にした表記法を使っているのだが、クォックグーをコンピューター入力するシステムはかなり複雑でしょっちゅう誤字を誘発する。この点については以前も取り上げたことがある。
ただでさえ複雑な入力システムなのだが、本が出版される際は著者だけではなく編集者などによる多重的なチェックがあるため、ベトナムで出版される本は誤字がそれほど多くない。でも、この本はベトナムではなく中国で出版されていることを考慮に入れると、クォックグーのシステムを理解しているのは恐らく著者だけであり、編集者や監修者などは正誤チェックをしていないはずである。事実、本の中身を見ると明らかな誤字がちょこちょこ見つかる。
馴染みのない言語の記述を見たときに、どれが誤字かを正確に判断するのは意外と難しい。今回の場合でもベトナム語と中国語が分からないと京語の珍しい特徴なのか誤字なのかが判断が難しい部分もあった。そんなわけで書かれている内容全てが正しいという保証はどこにもなく、常に検証・評価をしながら読み進めないといけない。
言語記述の読む際に注意をしないといけない理由の2つ目は調査方法にある。この本の説明によると、著者は広西省チワン族自治区東興市で調査を行ったと書いてあるのだが、恐らく調査に参加した京族の人たちは粤語(広東語)か普通話が話せるバイリンガル(もしくはトリリンガル)であり、調査自体も中国の共通語である普通話か、粤語で行われたのではないかと予想される(本にはこの点が明記されていない)。
本に出てきた語彙の比較をしてみるとすぐ気づくのだが、京語には粤語からの借用と見られる語彙がかなり出てくる。しかし、これは果たして京語として発話されたのか、それとも粤語として発話されたのかが、この本からだけではよく判断できない。そのため京語としての記録の中に粤語の語彙が出てきた場合でも、本当に借用語として京語の語彙の一部を構成しているのかは少し割り引いて考えておいた方がいいかもしれない。
京語の語彙
京語で使う語彙について一言で言うと、基本的な語彙はベトナム語とほぼ同じだが、京語の置かれた状況を反映して異なる語彙を取るものもある。気づいたものを一部紹介しよう。
比較的新しい概念や技術を表す名詞に差異が集中することが分かる。繰り返しになるが、動詞や形容詞、機能語(前置詞)、身体部位、数字など基本的な語彙はほぼ同じだ。
数が最も多いのはAグループの語彙で粤語とほぼ同じような形を取ると予想されるのだが、調査に参加した京語話者は粤語のつもりで話した可能性があるので特に注意が必要だ。例えば、私は中国人の友人や留学生とは「西安(Xī' ān)でも核酸検査(hé suān jiǎn chá: PCR検査)を結構たくさんやってるね〜」みたいに中国語と日本語が混ざった会話をすることがあるが、これを日本語の借用語としてカウントするのはいささか無理がある。Aグループの語が本当に借用語であるかを確かめるためには「あなたのところでは『ファストフード』を"phai tshán"と言いますが、 他に”thức ăn nhanh”という言い方もありますか?」など色々なことを調べないと判断できない。
ということで、この本から推測できるのは「京語は新しく取り入れた語彙が一部異なるベトナム語だ」という一点に限られる。ベトナム語の体系はほぼ完璧に保持されていて、保守性が極めて高いのは意外であった。次回は音声と文法を比較してみよう。こちらはやや専門的な話になる。