見出し画像

不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か

ロシア語の同時通訳者の米原万里さんの書かれた本でした。
要約してしまうと、「通訳をするには母語を磨かねばならない」
「単語ではなく文脈で理解し、訳しなさい」「文化・背景を理解しないと内容が伝わらない」と言ったことになろうかと思います。
ちょっと」雑すぎるかな。
一例を本書の中から引用します。
場面はあるロシア人の音楽家が台湾の人に当てて書く手紙を米原氏が和訳し、中国語の専門家が翻訳するという場面でした。
その一文に以下のような文章があったのです。
「台湾でお宅にお邪魔した際には、いとこの方に大変お世話になりました。」
中国語の翻訳者から連絡がきたそうです。
「このいとこというのは母方ですか、父方ですか。男ですか女ですか。本人よりも年上ですか、年下ですか。」
母方の場合は「外」父方の場合は「堂」、男性で年上であれば「兄」年下であれば「弟」、女性で年上であれば「姉」年下であれば、「妹」と8種類あります。父方の年上の男性であれば「堂兄」、母方の年下の女性であれば「外妹」と記述することになり、「いとこ」という括りが無いので翻訳不可能という訳です。
それから重要なことだと思うのが「母国語を外国語のようにとらえなおす」ことです。これは日本以外の国では徹底的にされている教育なのです。
母語を「空気のような存在」のままにしていてはいけない。母語と外国語のどちらが上手いかと言えば当然母語の方です。外国語はいくらやっても「母語以上には決してならない」
つまり、「通訳技術の向上」には「母語のブラッシュアップが不可欠」となるわけです。
もう一つ重要な指摘を上げるとこの中で外山滋比古氏の著作を引用されています。

 幼児にはまず三つ児の魂(個性的基本)を作るのが最重要である。これはなるべく私的な言語がよい。標準語より方言が良い。方言より母親の愛語がよい。ここで外国語が混入するのは最もまずいことと思われる。(中略)
 方言、標準語、外国語が三つ巴になって幼児の頭を混乱させるからである。(中略)
 家族連れで外国生活をしてきた家庭の子供にしばしば思考力の不安定なものが見受けられるのは、幼児の外国語教育がもし徹底して行われると、どういうことになるかという一つの警告とうけとるべきであろう。
(外山滋比古著『日本語の論理』中央公論社)

これは僕の個人的見解ですが、金城武という俳優を見ているとすごく感じます。彼は北京語、広東語、英語、日本語など多言語を操りますが、どれを聞いてもなんだか「違和感」というか「もしかして下手?」という印象を受けます。

最後に「エピローグ」で語られている「どんな通訳者も発展途上通訳者である。」米原さんの師匠の徳永晴美氏の言葉です。
そもそも「言葉で伝える」ことには同じ母語を使うもの同士であっても難しいところがあります。そこに来て全く違う文化の言語構造の異なる言語でのやり取りとなるとさらに困難になります。

私は、今のところ通訳者になるつもりもありませんが、この本は外国語を学ぶ意味やそれを通じての母語としての日本語を見つめなおすきっかけになるのでは無いかと思います。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?