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「目標設定したくないです。」について思うこと

数年前から、「目標設定したくないです」という新入社員が増えてきました。

我々の世代にとっては、「は?じゃあどうするの?」な感覚だったのですが、

「へぇそうなんだ」という態度。

で聞いていたら、僕自信もなんか目標設定、嫌だなと思うようになりました(笑)

「目標設定」は、時代変化のとても象徴的で押さえておかないといけない、ポイントな気がしています。

なぜ「目標設定」がポイントだと感じているのか?が、ある程度言語化できたので、自分の整理のためにも書いておきます。

結論ではありません。現時点での思考です。

⚫効率化というパラダイムが頭打ちになっている。

「実体経済」を永遠に拡大していくという方針で、経済発展を目指すことは難しくなってきたと思います。後進国の減少、先進国の人口減少、結果として人口増加率の減少が主たる要因です。
(これは今まさに起きている現実)

今までは、人口が増え続け、最低限の生活ができない人が大勢いた世界でした。

「衣食足る的な豊かさ」という一定程度、共通認識の取れた「目標」を達成していこうという事に疑問はなかったと思います。

ゴールがある程度明確なので「効率的」にその解決を図るという方針が主だったと思います。
先進国は少なく、後進国が発展するプロセスにも膨大な価値が生まれました。

大きな目的に向かって、ブレイクダウンされたKPI的なそれぞれの目標にも、充分な経済的価値を発揮できる余白があったと思います。
それで、みんな成長できたという事です。

松下幸之助さんの「水道哲学」のような思想や、「子供たちに均等な教育の機会を。」みたいな思想です。

それを、国や会社という存在がそれぞれ競争しながら最大化してきたのだと思います。

個人もその一員として価値の最大化を求められてきたのだと思います。ゆえに発揮すべき主たる価値は「効率化」でした。


⚫現在、テクノロジーの進歩も手伝って、世界中が最低限の豊かさを享受出来るようになる事が見えてきていると言って良いと思います。人口の上限も見えてきています。

逆に言うと、前提としてきた目標設定「衣食足りる豊かさ」の共通認識が崩れ始めていると思います。

まだ、世界全体が「豊か」になっているわけではないじゃないか!という指摘もあると思います。

確かにそうではありますが、世界中の人が「効率化によって」経済的価値を発揮できる余白は少なくなっているのではないでしょうか?

特に成熟した国家に生まれた我々にとっては、余白を埋める競争に参加することより、次の時代の価値をどう考えるのか?という意識に変わっていくのは当然の流れなのだと思います。

最低限の豊かさを超えた、「欲望の追求的な豊かさ」を拡大していこうというアイデアも、環境問題を中心とした世界の流れで、現実的ではないと感じます。

そうなると、「そもそも豊かさとは?」という問いが生まれます。

そもそも、今までのように、「効率化」のパラダイムで勝負しようとしても、マクロで見ると余白が少なく、テクノロジーによって、効率化の競争はゼロサムゲームの色合いを強くしています。

今までの世界を「効率化の時代」
これからの時代を「豊かさの時代」


と名付けてみると

「効率化の時代」は、どうやったら目的地に最短で行き着くのかを

「考え続ける」思考が中心だったわけです。

「豊かさの時代」は「そもそも豊かさとは?」とか、変わりゆく時代変化、自分の存在価値を「感じる」事が大切になるはずです。そういう事を

「考え続ける」思考が中心なのだと思います。

会社として成長発展を実現するにも、そういった「問い」や感覚の中にヒントが見つかる時代だとも思います。

同じ「考え続ける」でも、意味が異なる訳です。


これが冒頭の

「目標設定」は、時代変化のとても象徴的で押さえておかないといけない、ポイントな気がしています。

と感じている根幹です。

「目標設定」という言葉は、この全く違う意味を複雑に内包する言葉です。

そこで世代間意識がクロスしていて分かりづらくなっているのではないかと思っています。

すなわち「効率化の時代」の中での、「目標設定」は、どうやったら最短距離で目的地に着くのか?という思考パターンです。

これが「豊かさの時代」ではマイナスに働く可能性を秘めています。

※目標がそもそもずれていないか?
※手段の目的化になっていないか?
※そもそも何が豊かさなのか?
※自分は何を価値として生きるのか?

これが、「豊かさの時代」に「考え続ける」内容なのに、「効率化の思想」では、そのような事を考えさせない、思考停止にさせる圧力が働く可能性があるのです。

学校教育で、テストの点数が高ければ「豊かになれる」という画一的なメッセージを仕組みとしていることが象徴的です。


新しい世界の中で考えなくてはいけないことを、思考停止にする「仕組み」が確かにあったのかもしれません。

多くの情報に触れている感度の高い若い人にとって「目標設定」という言葉は、このような負の側面を想起させ、アレルギー的な感覚を起こしているように思います。

時代背景と、教育の仕組みが一貫している我々世代にとっては、「目標設定」によって成長することになんの疑念もなく、その疑念のない態度が若い世代にとって、さらに不信感を募らせたりします。

しかし、「豊かさの時代」に目標設定が必ずしもマイナスかというと僕はそうは思いません。

「そもそもの豊かさ」を問い直し、進む道を決めた後に、現実を動かしていく力としての「目標設定」は先人が作り上げてきた叡智だと言っても良いと思っています。ここでは詳細まで書きませんが、目標設定は潜在意識を使えるようになることに、その本質があると思います。

以前、アカウンタビリティについてnoteを書きました

アカウンタビリティ(説明責任)は人の為ならず

結論、「相談すること。」と締めくくりましたが「そもそも」を考えるためにも「目標設定」は大切だと思っています。

自ら設定した目標設定があるから、それが適切なのか?前に進んでいるのか?と考え続けることができるし、人に意見を貰うことができるからです。

学校教育に象徴される、思考停止に陥る目的としての画一的な目標設定ではなくて、
手段としての目標設定、アカウンタビリティは、「豊かさの時代」においても重要なスキルであると思っています。

叡智としての目標設定は手段として自由に使えるようになることが大切だと思っています。手段ですから使わないという選択もあるかもしれません。

しかし、使わないことと、使えないことは違います。

若い世代が、目標設定という言葉に、リスクを感じるのは良くわかるようになりました。

しかし、その事によって積み上げられた叡智としての、目標設定スキルを使えないと「価値の時代」の現実を進めていくことも困難だと思うのです。

結論、若い人は手段としての目標設定スキルを身に付けましょう。


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