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第11回「『あんた、誰なのよ?』って言われることがあるんです」(文=橋本倫史)

昭和の世田谷を写した8ミリフィルムの映像を手がかりに、“わたしたちの現在地” をさぐるロスジェネ世代の余暇活動「サンデー・インタビュアーズ」。月に1度オンラインで集い〈みる、はなす、きく〉の3ステップに取り組みます。ライターの橋本倫史さんによる記録です。

連載第11回(全17回)

世の中には“きく”仕事が存在する。

たとえば、カウンセラー。たとえば、記者。たとえば、コンサルタント。バーテンダーなんていうのも、来店したお客さんの話を“きく”仕事と言えるかもしれない。

サンデー・インタビュアーズ2021に参加している八木寛之さんは、普段は社会学者として研究職に就いている。社会学においては、研究分野によってはフィールドワークに出て、誰かに“きく”ことになる。

「社会学の中でも、私は〈都市のことを調べる〉ということをやっているんですけど、調査の対象者の方に話をききに行くとき、『社会学って何をする学問なんですか?』と尋ねられることがあるんです。その場合、『地域でなにか困っていることや問題が起きたときに、街の人たちがどんなふうに解決しようとしているのかを調べているんです』と説明するんですけども、それをうまく言葉で説明できないこともあれば、『それを調べて何になるの?』と言われてしまうことはよくあることなんです」

誰かに聞き取り調査をする場合、大変なのはアポイントをとることだという。自分は人見知りの人間だから、アポイントをとるのが最初の大きなハードルだと、八木さんは苦笑する。

「相手が自分の知り合いなら願ったり叶ったりなんですけども、そうでない場合も当然ありますので、まずはアポイントがとれるかどうかが高いハードルになるんです。昔であれば、まず手紙を書いて、そのあとに電話をかける手続きをする。今だったらメールを送って、『話をしてもいいですよ』と言ってもらえたら──これは“社会学あるある”でもあるんですけど──調査は半分ぐらい終わったようなものでもあるんです。話をききに行くまではどきどきしますけど、いったん話が始まると大抵の場合は面白い話がきけて、面白かったなあと帰ってくる、と」

八木さんの話に反応したのは土田さんだった。

社会学のフィールドワークの話から思い出されたのは、愛読している雑誌に掲載されていた記事のことだった。

「僕は『nice things.』という雑誌が好きで、よく読んでいるんですけど、その冒頭にアメリカのポートランドに取材に行ったときのことを書いた記事が出ていたんです。どうしても取材したい人がポートランドにいるんだけど、その人は日本のマスコミのことを敬遠しているから、『おそらく取材できません』と言われていた、と。だめもとで雑誌を送って取材意図を伝えてみたら、アポが取れたらしいんですけど、『相手の機嫌を損なわないように、なるべく短時間で取材してください』とコーディネーターに言われたらしいんです。ただ、実際にインタビューが始まってみると、いろんなことを話してくれて、結局一日中話してくれた、と。どういうことかと言うと、それまでにも取材を受けることはあったそうなんですけど、どこも30分ぐらいで取材を切り上げてしまって、伝えたいことを伝えられないことで嫌になっていたそうなんです」

予算が潤沢にあった80年代や90年代であれば、じっくり数週間かけて海外を取材することだって可能だったのだろう。ただ、景気が悪くなるにつれて、取材費は限られてゆく。特に海外での取材ともなると、「せっかくだからいろんな場所を」と予定を詰め込んでしまって、短時間で取材を切り上げてしまうメディアが増えたのだろう。

「ただ、この雑誌の人たちはじっくり話を聞かせてもらって、最後には自宅にまで招待してもらったそうなんです。それ以降は基本的に1日1件の取材にするようにして、取材を終える時間も決めないで、じっくり取材するように決めたそうです。八木さんのお話を伺って、その記事のことを思い出したんですけど、取材する相手がどう思うのか、考えが及んでいないときが自分たちにもあったと書かれていて、『ああ、なるほどな』と思ったんです。話を“きく”相手がどう思うのかってことを、想像するのが大事だなと」

話を“きく”ことにだけ集中してしまうと、往々にして自分の関心を相手に押しつける形になってしまう。ある話題についてきき出したいと思っていたとしても、インタビューの開始早々、唐突にその質問を投げかけても、相手はまだ心の準備ができておらず、うまく答えてもらえない場合もある。反対に、あまりにも勿体ぶったききかたをしても、相手は話しづらくなってしまう。まったく同じ質問をされたとしても、Aさんが相手なら答えるけれど、Bさんが相手だと答えないという場合だってありうる。

会話というのは、モノローグではなくダイアローグであり、相手があってのものだ。土田さんは職場であるデイサービスの現場でも、そのことを痛感することがあるという。

「たとえば認知症の方をお風呂に入れようとしたときに、『あんた、誰なのよ?』って言われることがあるんです。認知症の方以外だと『デイサービスのスタッフです』といえば伝わるんですけど、デイサービスがわからない。相手が何者かわからないと、こっちが何か伝えようとしてもきいてもらえなくなるんですけど、『ここは公共の施設で、お風呂とかにも入れるところなんです』とわかりやすい伝えかたをして、自分はそこで働いている職員なんだというふうに話すと、『ああ、せっかくだから入ろうか』と言ってもらえる。自分が何者で、何が目的なのかが伝わると応じてもらいやすいというのは、インタビューの場面でも一緒なのかなと思いました」

ただ──自分が大学に所属している研究者であることを伝えて、どういう調査をしているのかと目的を伝えたとしても、インタビューを断られてしまう場面は少なくないという。

「オーラルヒストリーを集めようとしていた大学教授が、『自分は大学教授の××という者で、こういうテーマで取材をしているので、ぜひ話をきかせてもらいたい』とお願いしたところ、『いや、大学の先生に話せるようなことはありません』と断られてしまったという話をきいたことがあります」。ふたりのやりとりをきいていたやながわさんがコメントする。「肩書きのない相手から『話をききたい』と言われて警戒されることもありますけど、それとは反対に、『大学の先生には、自分たちが普段話しているような日常的なことは話せません』と思われてしまうこともあるので、色々だなって今の話を伺っていて思いました」

やながわさんが例に挙げたのは、民話採訪者の小野和子さんの著書『あいたくて ききたくて 旅にでる』だ。1934年に岐阜県で生まれた小野和子さんは、1969年から宮城県を中心に東北の村々を訪ね歩き、たったひとりで民話を採集してきた。

地縁も血縁もないまま、ここ宮城の地で民話を聞かせてもらいたくて、それを語る人を探して歩き始めたばかりのわたしだったが、当然のことながら、どこへ行っても、おいそれと聞かせてもらうことは無理な話だった。
同じことをするにしても、それが男性だったら、もう少し違ったかもしれない。
だが、肩書きも職業もない、スカートを履いた四十歳になろうとする女が、ノートを持ってふらりとあらわれて、
「子どもの頃に聞いて覚えている昔話があったら、聞かせてくださいませんか」
と、唐突に言ってくるのを、人々は好奇の眼差しでは見ても、まともに相手にできない気持ちを抱くのは当然のことだと、わたしは思うのである。

小野和子『あいたくて ききたくて 旅にでる』

そんなふうに民話採訪を始めた小野和子さんは、ある「先輩」から、いきなり「聞かせてくださいませんか」だなんて言わないほうがいい、と助言される。その先輩は「長く民話に携わってこられた方」で、「まとめられた民話集も自家本も含めて百冊に近い」偉業を成し遂げられた方だ。

それでは、どんなふうにきけばよいのか。先輩が言うには──まずは家の周りを見て、ゴザに小豆が干してあれば「ほう、いい小豆だね。これは○○だね」と品種を言い当てる。そうするとすぐに信用してもらえる。そして、もしその土地に知り合いがいれば、「○○さんは元気かな? おれの遠縁にあたるんだが、話好きな人で……」などと、あてずっぽうでもいいから言ってみる。その土地に知り合いがいるとなれば、いよいよ気を許してもらえる。そんな四方山話で糸をほぐすのが大事なのであって、いきなり「民話を聞かせてください」なんて言ってはだめだ、だめだ──と先輩は言った。

先輩の話を聞きながら、わたしはだんだんと気が滅入ってきたものだ。
わたしは農業のことはなにも知らず、結婚後に移り住んだこの地には血縁も地縁もなかった。生まれ在所は岐阜県で、小・中・高と学校生活を送り、大学は東京だった。ここには近しい親戚もなく、友だちもなかった。困ったことにこの土地の言葉もわからなかった。
そんなわたしが、見知らぬ農村へ入っていくのは無謀と言うべきなのかもしれないと何度も、身に沁みて思ったものだ。まして、先輩が教えてくださった「技」とも言うべき聞き方ができる性分でもなかった。ただ単刀直入に、真っ直ぐにぶつかっていくしか方法を持たないわたしだった。それでやっていくしかなかった。

『あいたくて ききたくて 旅にでる』

先輩は、「技」があるからこそ、テクニカルに話をききだすことができて、百冊近い本を出版できたのだろう。

ただ、『あいたくて ききたく 旅にでる』を読めば、先輩の「技」が唯一の方法ではないのだということがよくわかる。この本に収められている「民話」は、「みんなみんな、ほんとうのこと」として語られたものばかりだ。それは、真っ直ぐにぶつかっていく小野和子さんだからこそ、ききとることができた「民話」だ。

文=橋本倫史(はしもと・ともふみ)
1982年広島県生まれ。2007年『en-taxi』(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動をはじめる。同年にリトルマガジン『HB』を創刊。以降『hb paper』『SKETCHBOOK』『月刊ドライブイン』『不忍界隈』などいくつものリトルプレスを手がける。近著に『月刊ドライブイン』(筑摩書房、2019)『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社、2019)、『東京の古本屋』(本の雑誌社、2021)、『水納島再訪』(講談社、2022)。

サンデー・インタビュアーズ
昭和の世田谷を写した8ミリフィルムを手がかりに、“わたしたちの現在地” を探求するロスト・ジェネレーション世代による余暇活動。地域映像アーカイブ『世田谷クロニクル1936-83』上に公開されている84の映像を毎月ひとつずつ選んで、公募メンバー自身がメディア(媒介)となって、オンラインとオフラインをゆるやかにつなげていく3つのステップ《みる、はなす、きく》に取り組んでいます。本テキストは、オンライン上で行うワークショップ《STEP-2 みんなで“はなす”》部分で交わされた語りの記録です。サンデーインタビュアーズは「GAYA|移動する中心」*の一環として実施しています。
https://aha.ne.jp/si/

*「GAYA|移動する中心」は、昭和の世田谷をうつした8ミリフィルムのデジタルデータを活用し、映像を介した語りの場を創出するコミュニティ・アーカイブプロジェクト。映像の再生をきっかけに紡がれた個々の語りを拾い上げ、プロジェクトを共に動かす担い手づくりを目指し、東京アートポイント計画の一環として実施しています。

主催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、公益財団法人せたがや文化財団 生活工房、特定非営利活動法人記録と表現とメディアのための組織[remo]

サンデー・インタビュアーズをめぐるドキュメント(文=橋本倫史)