さようならはいまもなお

君はそのままでいいんだよ、と彼は言った。
ただそこにいるだけでいい。ただこうして、そばにいて抱きしめあっているだけで、それ以上は何も必要ないよ。
こうしているだけで、充分満たされる。違う?

ずっと、そうではない、と思っていた。彼がそう言うたびに、それでは足りない、と不平ばかり零していた。彼は困ったように笑って、ただ私を後ろから抱きしめて、もう寝なさいと言うだけだった。
私はないものばかりねだって、そこに今あるものには、ほとんど目もくれなかった。
私と彼の価値観はあまりにも違っていて、彼によって私がより人間らしくなれたり、私によって彼もまた人間らしくなれた部分もあると思っていた。足りないものを補い合える二人だと思った。
けれど分かり合えない部分はいつまでもそこにあって、それは最後まで交わることはなかった。

彼の大切にする仕方と、私の大切にする仕方は違うのだとは分かっていたけれど、どうしても納得がいかなかった。好いている気持ちと裏腹に、次第に互いの心が離れていくのを止められなかった。
憎み合ったり、嫌い合ったりしていたわけではない。
お互いに傷付け合い、終わりは以前から見えていて、いかなる形であれいつかは離れる時が来るのだとお互いに分かってはいたけれど、その時期を掴み損ねて、ただ時間は流れていった。

彼が私にしたことなど、なにもかもが終わってしまった今考えれば、どうだっていいことだった。いや、どうだっていいことではなかったかもしれないが、そんなものは瑣末なことだった。
彼がいたことで、生きてゆくことに不安でなげやりだった私に、今日の生活を生きのびて、新しく明日を迎える理由ができたのだから。
不安だったことも、悲しみに暮れたことも、怒りに駆られたこともあったけれど、彼が家に帰ってきて、ふたりで食事をとって、寄り添い合って抱きしめられて、ともに眠りにつくことだけで、私は心の底から満たされきって、安心することができたのだ。
彼がいるだけでよかった。彼といるだけで、それだけで本当はよかった。

***

あなたは自分を好きでいてくれる誰かを欲していただけで、私を好きなわけではないのね。
愛している気持ちはもうないのに、温もりだけほしくて私と一緒にいるのなら、そんなのはもう意味が無い。私があなたを好きなだけでは成り立たない。あなたも本当は分かっているはずだよ。
あなたを真摯に愛している私に対して、そんな姿勢は失礼だ。不誠実だ。そんな関係ならば、もう私は続けていくことができないよ。
……違う、こんなのは彼に責任を全部押し付けて、私を悪者にしないための最低な言葉だ。もう誰が悪いとか悪くないとか、そんなことはどうだっていいのに。

あなたのことは、離れてもずっと好きだ。大切に思っていたし、これからも幸せになってほしい。本当は私があなたを幸せにしたかったけれど、きっとその役目は私が果たせるものではないんだと思う。
ずっと好きだけれど、もう私たちはここからきっと変化していくことはないし、まただんだんと色を失っていく。それを見ているのは私には耐えられない。
あなたは、他の大切な人と、また笑い合うことができる。私もそう。
もう会えなくても、記憶は残っていくし、事実もなくならない。あなたを好きでとても大切だったということは、私はきっと忘れないし、それを信じていられたことは、大事な経験だった。あなたに会うことができて、私は幸福だったと言えるよ。

***

何を見ても何かを思い出す。気晴らしに行こうと街を歩いてもどんどん寂しくなっていく。
イヤホンから流れる音楽も、一歩歩くごとに視界に見える景色も、全部全部彼にまつわるできごとを思い出させて、景色が視界から流れていくより前にただただ涙が出た。
寒くてしかたがなかったから家に帰った。夕飯のカレーの匂いが外から分かって、おかえりと迎えてくれる家があることに救われることがあると知る。



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