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自分と他者、「待つ」ということ。

 人生で初めて、2度映画館に足を運んで見た映画。それが、アディクト(依存症患者)を主題として取り扱った『アディクトを待ちながら』だった。2度見て、完成台本に目を通し、そんないまこの作品に感じていることを記しておきたい。
 *本文の内容に大きく言及しますので、作品をこれから見る方はこの先を読まないようご注意ください。
 ちなみに、1回目を見た後の感想はこちら。

アディクトを「待つ」

主役を待つ仲間たち

 『アディクトを待ちながら』のあらすじは、公式HPには以下のように書かれている。

数々のヒット曲を持つ大物ミュージシャン、大和遼が覚醒剤と大麻の所持で逮捕された。人々は驚き、落胆し、大きなニュースとなった。あれから2年。依存症患者らで結成されたゴスペルグループ「リカバリー」が音楽ホールでコンサートを開こうとしていた。そのメンバーには大和の名前があった。あの事件以来、沈黙を守ってきた大和がついにカムバックする。出演の知らせを聞いたコアなファンが続々と会場前に集まった。薬物、ギャンブル、アルコール、買い物、ゲームといった依存症者で構成される依存症ゴスペルグループ「リカバリー」。メンバーたちは互いに支え合い、スリップ(依存性物質に再び手を出すこと)することなくコンサートにこぎつける。しかし、大和は開始時間を過ぎても現れない。逃げたのか?それともスリップ?果たしてコンサートは開催できるのか——。

Story〈https://www.addict-movie.com

 タイトルにある「待つ」とは、コンサートの開始時間を過ぎても現れない大和を他のメンバー達が「待つ」ことである。この映画の中心は、単純に、アディクトである大和がコンサート会場に現れるのを仲間たちが「待つ」物語である。(もちろん、そこでどのように待っているか?が映画の見どころでもある)

もう一つの「待つ」

 しかし同時に、もう一つの「待つ」が重なっていることを見落としてはならない。それは、コンサートの開始を「待つ」観客たちである。実際、完成台本において「待つ」という言葉が使われているのは、ほとんどが観客に関してである。しかもそれは、有名人である大和を「待つ」という文脈では必ずしもない。

 機材トラブルで開場を遅らせると説明し、「今しばらくお待ちください」と話すスタッフにしびれを切らす観客たち。列に並んでいたところから帰ろうとしたのは、ギャンブル依存症の「コスモ」の父親だった。この父親はアディクトの集まりを「傷なめあっているだけ」と呼び、息子に向き合う気を持っていない。そんな父親に、母親が「お願い待って。待って。」と声をかけて帰るのを止める。そして、「今日は絶対に付き合ってもらいますから」と父親に強く言い、父親にコンサートを——すなわち息子を——待たせる。

 もう一人、コンサートを待つ観客として取り上げるべきは、奈緒である。奈緒は、薬物依存症の「ヨッシー」の担当美容師であり、彼に招待されたことでコンサートを訪れる。コンサートの開始を待つ奈緒は、ヨッシーに「機材トラブル大変そうだね?大丈夫かな?」とメールを送る。ヨッシーはそれに、「だいじょうぶ」と返信しようと打ちかけ、途中で手を止めてしまう。大和が訪れずコンサート自体が中止になるかもしれない最中、「だいじょうぶ」と送れない自分がそこにはいた。そうして逡巡していると、奈緒からもう一通のメールが送られてくる。そこには、「ごめん。大丈夫なわけないよね。私は待ってるから安心してください。」と書かれていた。

 大和を待つメンバー。大和を待つファン。息子を待つ父親。ヨッシーを待つ奈緒。そうして、様々な「待つ」関係が映画の中には織り込まれている。

繰り返されるテーマ——「自分」と「他者」

 ところで、この映画では、「待つ」とは別に何度も繰り返されているテーマがある。それは、「自分」と「他者」の関係である。

依存症患者の家族

 この映画は、一人の女性が自殺しようとして踏みとどまる場面から始まる。その女性は、後に明らかになるが、薬物依存症患者である大和の妻「エリー」だった。依存症の問題は決して当人だけの問題ではない。それと同時に、そこには当人にしかどうしようもない問題もある。だから、依存症患者の家族にとって、家族である「自分」と、「他者」である依存症患者との関係は非常に深刻な意味をもつ。 

 それが現れているのが、コンサート当日、大和を待つ場面である。エリーは大和が訪れないことに大きなショックを受け、「すみません。おさわがせして」と他のメンバーに謝る。その姿に、仲間であるヨッシーは次のように声をかけていた。

ねえ。エリーさんが謝る事じゃないよ。
大和さんの問題は大和さんのものだし。
妻だからって責任をおう必要はないっていつもみんなで話してるじゃん。

『アディクトを待ちながら』完成台本、p.34.

 もちろん、家族が必ずしも依存症に理解があるとは限らない。それゆえ、家族内で依存症に対するスタンスがずれることもある。コンサートの3日前、アディクトの家族を中心としたスタッフたちが準備をしている場面。そこで、ギャンブル依存症患者「リュウ」の母親である「バニラ」は、「旦那が未だに依存症のこと理解できなくて参っちゃうわよ」と愚痴を吐き、旦那がコンサートにも訪れないのだと話す。それを聞いた他のスタッフは思わず、「リュウさんかわいそう」と口にする。その「かわいそう」というセリフに、買い物依存症患者「マコ」の娘である「アカリ」は次のような発言をしていた。

別にかわいそうじゃないんだよ。
バニラさん。それは時が来るのを待った方がいいってこと。
他者に囚われるよりも自分自身が楽しんだ方がいい。でしょ?

『アディクトを待ちながら』完成台本、p.37.

 夫であり依存症患者である大和という「他者」に「囚われる」エリー。依存症患者である息子と、その息子に理解を持たない夫という「他者」に「囚われる」バニラ。「他者に囚われる自分」と、「囚われずに自分自身を楽しむ自分」。これがこの映画で繰り返し登場する重要なテーマである。

他者に「囚われる」アディクト

 コンサートの待機列から一度帰ろうとするも、止められて待つことになったコスモの父親。コスモとその父親の関係には、幼いころからの傷があった。コスモは、兄と違って出来が悪かった自分は父親に嫌われていたと話す。回想シーンでは、コスモの父親が「お兄ちゃんと同じ学校行けなかったら、人生終わるぞ」と幼いコスモを脅す場面も登場する。そのコスモは、次のように自分自身を振り返る。

つまるところ、私は父に認めてほしかったんだと思います。
最近素直にそう思えるようになりました。

『アディクトを待ちながら』公式台本、p.34.

言いかえれば、コスモは父親という「他者」に「囚われていた」。そしてそれゆえに、父親に認められない自分自身を認めることができずにいた。

 他人から認められる、という点において言えば、かつて有名なアーティストであった大和は他者から認められた人物だった。ゲーム依存症患者の「テル」は、そのように大和のことを見なし、「ズルイな大和さん。才能もあって、みんなから好かれてさ。それで依存症になるとか意味わかんないよ」と、大和を待つメンバーたちに募らせた不満を漏らす。この「テル」は、自分でも「僕は現実には友達がいなかった」と言うように、他者に認められず、しかし他者に認められたくて、「他者に囚われ続けた」人物であった。

 そんなテルの言葉を聞いた薬物依存症患者の「ライ」は、次のようなセリフを返す。

いくら他人から好かれても、自分が自分の事好きになれなかったからだろ。依存症になるってさ。
大和さんも俺たちもみんな同じだよ。

『アディクトを待ちながら』完成台本、p.34.

ライの言葉から浮かびあがるのは、他者に囚われると同時に、自分自身にも囚われている人間の姿だ。「自分自身が楽しんだ方がいい」と口にするアカリの発言と、「自分の事を好きになる」というライの言葉には重なる部分がある。そして、それは誰にとっても決して簡単なことではない。

アディクトではない人にとっても

「自分自身が楽しんだ方がいい」
「自分の事を好きになる」
これらと重なるセリフがもう一つある。それは、劇中で最も早く、なおかつアディクトとは関係のない場面で登場していた。それは、奈緒とその父親の関係においてだった。

 コンサートを見に来た観客である奈緒。彼女は、自身の客であるヨッシーに誘われて来たが、自身や自身の家族がアディクトなわけではない。しかし、そんな彼女も一つ大きな傷を負っていた。それは、父親の自殺である。奈緒の父親は、3代続く会社を潰してしまったことで亡くなってしまった。父の死に強い悲しみを覚えた奈緒に蘇ってきたのは、生前に父が奈緒に語った言葉だった。

奈緒。奈緒は何にだってなれるんだよ。
家の事とか周りの事なんて気にしなくていい。
自分を信じて、自分の好きに生きればいいんだ。

『アディクトを待ちながら』完成台本、p.39.

他者に囚われずに、自分の好きに生きる。それが、父親が奈緒に残したメッセージであった。おそらく、誰よりも自分自身が他者に囚われて好きに生きれなかった父親が、精一杯の想いを込めて贈った言葉だった。

 他者に囚われて苦しくなる。自分が見えなくなる。
 自分自身にも囚われて苦しくなる。自分のことを認められない。
 それは、全くもってアディクトに限った話ではない。ほとんどの人にとってありふれた、「自分」と「他者」との絡み合った関係である。劇中に登場した、アディクトへの強い偏見をもった人物たちでさえ、——むしろ人物たちこそ——つよく他者に囚われ、なかなか自分を認められずにいるようにも見える。『アディクトを待ちながら』に描かれているのは、アディクトだけではない。これは、わたしとあなたの物語でさえある。

再び、「待つ」ということ

「他者」の意義

 「他者に囚われないで」
それは、紛れもなくこの映画におけるメッセージの一つである。
しかし、それは「他者が不要である」ということを全く意味しない。
むしろ、他者の必要性を何度も強く訴えかけているのがこの映画ではないか。

 「他者に囚われないで」「自分の好きに生きて」というセリフは、誰かから誰かへのメッセージとして、すなわち誰かから「他者」への関わりとして現れている。「他者に囚われるよりも自分自身が楽しんだ方がいい」というセリフは、同じく「他者」であるところの母親に囚われてきたアカリが、バニラのために紡ぎ出した言葉である。「大和さんの問題は大和さんのものだし」というセリフも、ヨッシーがエリーに向けて語ったものだ。「周りの事を気にせず自分の好きに生きればいい」というメッセージも、奈緒へと父親が送った言葉だった。

 ギャンブル依存症患者の「みっちゃん」が、危うく衝動に駆られてパチスロ屋に入ろうとしてしまったのを止めたのは、みっちゃんの心の中にあった仲間たちの存在だった。そのみっちゃんがまた、他のメンバーに回復の勇気を与える存在にもなっている。買い物依存症患者で理性が働かなくなっていた「マコ」は、娘のアカリの存在によって我に返る。他者こそが、アディクトを支えてきた。他者の存在と関わりによって、アディクトたちは回復してきた。他者によって、自分を認められてきた。

「待つ」とは何か

 他者に自ら積極的に関わりながら、同時に「他者に囚われないで」と伝える矛盾。これこそが、「待つ」ということではないか。

 「自分の好きに生きて」というセリフを他者に伝えたとして、それを実現できるのはその「他者」自身でしかない。結局のところ自分には何もできない。だからと言って関わらないのでも、関わって他者を操るのでもなく、関わりつつ距離を見つけること。

 だから、「待つ」ことはなかなか難しい。

 開場されないコンサートに並び続け、「私は待ってるから安心してください」と送った奈緒。相手が自分に囚われてしまうことを避け、しかし相手にしっかり関わろうとするその姿勢は、まさしく「待つ」姿勢そのものだった。
 そしてもちろん、「待つ」姿勢が大切なのはアディクトだけの話ではない。他者を他者自身に託して、自分も自分自身で肯定して、そして同時に他者と自分との回路を開き続ける。そんな「待つ」姿勢が、今を生きるわたしとあなたにも必要なのだ。

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