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現代文を学ぶことに意味はあるのか?

「現代文を学ぶとはどういうことか?」

日本で高校生を経験した人なら誰もが思ったことはあるかもしれない、現代文というものへの疑問。

日本語で書いてある文章を読んで問いに答える。
母国語というだけで何故か絶対の自信を持って答える人が多い。
それが故に解説を読んでも先生に聞いてもどこか腑に落ちず、勝手に感覚とか才能とかに落とし込む人が多い様に思う。

敢えて偉そうに言うが、私はある段階から東大模試の現代文で満点を取ることが当たり前になった。
本番では現代文の点数は開示されないが、おそらく満点だと思う。
というか満点以外あり得ないという自信を100%の根拠を持って解答した。

現代文は出題者と添削者が社会的に、知的にまともなら正解は一つに決まるものである。

問題を精密に読解し、論理的に必要かつ最小限の解答を組み立てればいいだけの作業ゲームだ。

しかし恐らく東大の現代文の過去問を解いても満点を取れないことは理解できる。

それは国語教育があまりにも軽視されているからだ。
書いてあることを正確に理解し、バイアス無しに取り入れ、問われていることに答える力を鍛えることのできる教師など稀だろう。

今でこそメディアにでて有名になった林修先生に高校生の時分に出会えたのは本当に幸いだった。
徹底的に鍛えられた。

その修行とも言える勉強の中で言われ続けたのは"何で自分の考え入れてんの?""何で書いてあることと問われていること以外のこと書いてんの?"だ。
(受かる気ないの?とか言われたのは内緒だ)

この2つの言葉は全く持ってその通りだと思い、書いてあることを理解して必要最小限しかアウトプットしない訓練を重ねた。

その結果模試では当たり前に満点を取る様になった。

また、当たり前の効果だが、これは他の教科、数学や社会などにも大きく効果を産んだ。

書いてあることを理解して求められていることを論理的に記載するだけのことだ。
少なくとも暗記という謎の壁はあるが、それをとりあえず乗り越えればあとはこのチカラだけで日本の受験なんてものはクリアできる。

そしてそれは仕事にも役に立つ。
上司や顧客、ベンダー、部下、同僚の言っていることを正確に読み解き、理解し、自身の求められる役割にアウトプットとして出すことは非常に有効だ。

私が仕事ができるとまでは自惚れないが、少なくともこのチカラを使う場面は多い。

とはいえこの訓練は難しく、いくら東大の過去問を解いてもその解説本に私視点てさえ正解と判断できるものはほぼ皆無だからだ。

ただ、実際には満点を取る必要はない。
8割ぐらいできていれば十分だし、解説を読んでケチをつけられる頭をつくっておけばとりあえずは大丈夫だろう。

博士になったり教授になったりして活躍するにはもう少し上のレベルが、東大の現代文なんて10分で事足りるぐらいの頭がいるのかもしれない。
それはもうIQなんじゃないかとあまりに頭が良かった友人たちを思い出す。

これから勉強していく日本人の子供にはとにかく日本語教育、すなわち現代文を徹底的にできるようにし、他の科目はその基礎的なチカラをもって勉強していただければと思う次第だ。

30を越えて何か"これから"の世代、ともに生きていく世代にこんな自分でも伝えるものがあるのではないか、また伝えるべきなのではないかと馬鹿正直に考えてみた。
そんな月曜日の夜。

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