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活動の範囲と課題設定


プロフィール写真が変わっても中身もやることも基本は変わらず、人間の成長は全て上塗りをどれだけ重ねるかだと思っています。そんな久々のポエム。御待たせしました。御待たせしすwww


“社会活動“というと”ある特定の地域に特定の課題“があり、その解決策として”特定の手法“があるようなストーリーを拝見することが多い。
それは“伝える手段”としては有効だが、現場視点ではどの様な目線で見ることができるのかは常に疑問に思う。


その特定の地域以外の類似した課題や、特定の地域における特定されていない他の課題、文化、宗教、経済、社会、政治的な背景や文脈。
それらをガイジンが“特定の手法”を試して上手くいった行かない、解決したしていないと議論することには一定の価値はある。その価値はほか地域、時間軸での展開による余計な失敗の排除と無駄な努力の排除への可能性というものだろう。これは一見消極的な表現だがとても大きな価値がある。


“善いことをしよう”ではなく“ある課題を解決しよう”という目的のもとであれば十二分に現場のためになるだろう。どこかの知らない誰かが情報を得て活動することで当人の今まで努力はそれを踏まえてさらに発展させてもらえる可能性すら孕んでいる。
もちろんその様なきれいごとばかりが通ればとっくに世の中の課題はほとんど消え去っているのだろうが。


同時に考えるべきは
その地域は時間的・空間的広がりを持った関りがあり、“完全な断絶“は基本的にはあり得ない。(その様な断絶があればガイジンが影響を及ぼすことは不可能だろう)
ということだと考えている。


加えて、“世の中は二軸の世界ではできておらず、誰かにとって短期的によさそうでも他の誰かにとって、また長期的に見た場合にあまり好ましくないこと”も十二分にあり得る。


産まれた環境で機会が無いまま放置されることで利益を得る人も当然にいるのがこの世であり、奴隷制、児童労働、低賃金、搾取といったレッテルを貼られてきた状況は観る人によってはそれは+になり、また人によっては-にもなるし、ほとんどの場合その間だろう。


この前提が“あらゆる社会課題を考える上での土台”であるように思う。
このようなしちメンドクサイことを考えず、とりあえず“やる”というのは往々にして現場のためにならないこともある。ただ、この一生というたいした時間でもない人生を満足して死ぬためには何かしらの現象を“課題”と捉えてそれを解決することに心血を注ぎ、使命とするのは美しいと評されるのだからそれはそれでよいのだと想う。


活動家の中には自分がもっとたくさんいたら課題は解決すると考える方もおり、それはそれで一理あるのだろう。
ただ、私は私がたくさんいるよりもなるべく私より優秀で理性的で健康で元気で前向きでアイコンになるような見た目でたくさんの言葉を操り、寝なくてもいいような人間がたくさんいた方がよほどいいんじゃないかと思う。
少なくとも自分が複数いることで世の中が良くなると考えるほどにはまだ至ってもないし、恐らくその様な考えに至れるほど“素晴らしい“人間にはなれない。


私の現在の問いへの答えである“外部環境が原因で努力したくてもできない人をゼロにしたい”というものは私は世の中の多くの優秀な先人や現代人、これからの人類と共に社会を構成するイチ個人として、すなわち歯車として機能するにすぎず、その歯車を回したり創ったりするまるで天地創造主の様な存在になろうなど私には到底無理だろう。


謙虚さと虚無さは紙一重だと感じつつ、今日も前を向いて久々のポエミー投稿とともに元気にやっております(笑)

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