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デジタルとフィジカルの逆転現象/iPhoneで写真家が撮るということ。

写真は写真家の私が iPhone 13 Pro で昨日(2021/11/24)東京大学にて安田講堂と銀杏並木を撮影したものである。SNSでも少々話題にしていただいたので、ここ note に残しておくことにしたい。

東大で真剣に話し合われた日本再生への道

昨日、関わっている東京大学情報理工系の会合に出席するために本郷の工学部へ行った。そこには東大の教授陣と大手企業のイノベーション責任者などが集まり「日本からGAFAが出てこない理由」からはじまり、今後産学連携をどのように進めていくか、果ては日本の教育についてなども熱く本音が語られた。絶対に外部に出さないという条件で話した方が多いので公開できないのは残念ではあるけれど、そこにいた人々の我が国をよくしたいという熱い想いは私の胸の炎の燃料にもなった。

そのなかで印象的だった論は「デジタルとフィジカルの逆転現象」についてだ。そもそも普段あまり意識されないと思うけれど、日本の「工学」は永らくハードウェアが主で、ハードウェアを制御したり使いこなしたりするための従がソフトウェアという位置付けで、その考えは今も基本的に変わっていない。これをどのように世間に周知すべきか、という議論だった。

さて「失われた30年」という言葉で日本経済の凋落ぶりを論じることが多いけれど、昨日の議論はこの30年で日本という「モノという成功体験で塗り固められた工業立国がソフトウェアを軽視し続け、そのパラダイムシフトに乗り遅れた事」についてであったが、私は写真家でもあるので偶然にも昨日プロが撮影した iPhone での東大安田講堂の写真を題材にして想ったことを記しておきたい。この写真、結構いいと思いませんか?

プロの使う大きな写真機とスマートフォンの違い

両者にはたくさんの違いがあるのだけれど、要するに目的の写真が撮れれば道具としてはどちらでもいいことになる。私は普段ドイツ製のLeica(ライカ)というシステムを使っている。理由はもっとも生産性が高いからだ。特にポートレート撮影における自然な肌の透明感やボケの描写、髪の毛産毛の描写などは私の感覚ではまだまだスマートフォンが追いついてくるレベルにはない。しかし風景やスナップ撮影はどうだろうか。その差を明確に出せる場面は急速に減ってきている。ページトップの写真は風景+スナップという類の写真だ。

制約から生まれたパラダイムシフト

スマートフォンのカメラのレンズは大型にできない。そのため、我々プロが使うようなレンズのように例えば14群18枚 のような大量のガラスや特殊な異常分散レンズ、非球面レンズを用いた歪み、色ずれ、周辺減光、色収差などの光学的な補正を行い得ないのだ。逆にいうと、プロ用のレンズが大きく重く高額なのは、こういった「光を急激に捻じ曲げることによる様々な問題をレンズの中だけで光学的にハードウェアだけでなんとかしようとしている」からでもあるわけだ。

近年、スマートフォンのCPUやニューラルネットワークプロセッサが高度化してきた事で、ソフトウェアで夢だったことが次々と具現化した結果、急激にスマートフォンのカメラが高画質化してきた。これまでの記録用のレベルからファインアートをクリエイトする道具にあと少し、というレベルに来ている。レンズは最低限の仕事だけしてくれれば、あとはソフトウェアで補正、脚色しますよという考え方だ。

なので、最新のモダンスマートフォンのカメラシステムは、体験価値が設定され、次にソフトウェアがデザインされる。ソフトウェアで必要なCPUやニューラルネットワークプロセッサが搭載され、それらの実力を十分引き出せる最小限のハードウェアとして、レンズとセンサーが用意される。センサーでさえソフトウェアからの様々な指令を受けながら動いているが、レンズとセンサーが吐き出す写真はある意味素材に過ぎず、見れたものではないだろう。その事後処理で写真が創造されている。

勿論これらはあの小さなスマートフォンにカメラシステムを全て載せるというもともとは無理ゲーだったサイズ、重量の制限から起こった事だったが、カメラ業界でもこの動きを応用している会社も増えてきた。

日系カメラ業界もなんとか追随してはいるが

私の知る限りで最も古いのは、Panasonicのマイクロフォーサーズセンサーのカメラシステムだ。10年ほど前のある日、このシステムに超広角レンズを付けて撮影していた私は異変を感じたのだ。それは、ある瞬間から画像が歪み周辺減光も著しい酷い写真しか取れなくなってしまった時だった。原因はレンズが最後までカチッと固定できておらず、電子接点がレンズ情報をうまくカメラに伝えていなかったことだった。この時に「このPanasonicのカメラシステムのレンズが軽量で高画質なのは、ハードゥエアでの補正を一部諦めてソフトウェアに任せたからなのだ」と感心した。しかしその後このシリーズは革新的な進化をしていないのが気になる。

カメラがない!

さて話を戻して昨日私は、午前中に自分の会社の業務をこなし、午後は東大という二毛作だったため荷物が多くてLeicaをカバンに入れてなかった。忘れていたけど。学校の前のスタバでそそくさと休憩を済ませて学内に戻る途中でこの風景に出会った。あの安田講堂が入り口だけ見えていてしかも光っている。手前の銀杏並木にも冬の午後の鋭い光が見受けられ、コロナ禍で学内は関係者しかいないのだから、数秒も待てば人は殆ど居なくなる。千載一遇の撮影チャンスであった。カバンを弄った私は迷った挙句Leicaを自宅に置いてきたことを思い出したが、即座に発売直後の iPhone 13 Pro を構えてものの1分でこの写真が撮れた。おそらくLeicaならもっと凄いのが撮れただろうが、私は自宅の大画面でこの iPhone の写真を見て仰け反った。少なくとも私が伝えたい事、芸術性、物語性、美意識.... はかなり伝えられるのではないか。

パラダイムシフトをしよう

いうまでもなくこれまで以上にハードウェアは大事だし、センサーも大事である。ここで日本の優位性は高い。いいことだ。しかしものづくりの中心を「必要とされる体験」「体験に必要なソフトウェア」から発想し、その後ハードウェアを選定していくような考え方で世界が既に回っていることを考えると、付加価値はソフトウェアにあり、利益は当然付加価値に乗る。

この考え方を学び体得していかないと日本のインダストリーに未来はないのではないかと再認識させられる出来事だった。大学での会合の内容とリンクするような私の「Leica忘れからのiPhone写真」が評価されるという印象的な1日となった。少しでも写真家として、起業家として、どうすれば日本の未来にもっと貢献できるのか自分に出来ることを子供達のために躊躇なくやってみたい。

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