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『古道具そらしま』の店主が語る、「これまで」と「これから」のこと<古道具そらしま 高島浩さん>

2017年に長野市から須坂市に移転した『古道具そらしま』。

開店するのは毎月第一土曜日から次の金曜日まで、月7日間のみという営業形態ながら、市外からも多くの人が訪れる注目の店となっています。

この『古道具そらしま』の店主を務めるのが、高島浩さん。

古道具屋を営むだけではなく、須坂市内にある、かつての花街近くの小径を自らプロデュース。写真館と刺繍アトリエを併設したお店や、喫茶店、アンティーク・雑貨店などが軒を連ね、独特の世界観を醸し出す空間をつくっています。

そんなユニークな展開を生み出し続ける高島さんのこれまでの歩みと、見据えている世界について伺いました。

「古道具屋をやろうと思ったことは、人生で一度もない」そんな高島さんが須坂で『古道具そらしま』を開くまで

――高島さんのこれまでについて聞かせてください。

私は地元が須坂なんです。高校卒業までこの街で過ごしていました。そして、大学進学のために富山へ行き、卒業後は松本の印刷会社に就職。師匠のもとについて、必死に印刷機を回していましたね。


――もともとは、古道具とは異なる世界にいたんですね。

実は古道具屋になろうと思ったことは、人生で一度もないんですよ。ただ、「古いもの」が美しいとは思っていて。

大学時代から古道具屋に行くようになり、松本で働いていたときもよく『古道具 燕』という店に通っていました。店主に「街の古い建物が壊されてしまうことがイヤだ」と話したら、「それなら、古い建物を活用することを仕事にしなよ」と言われて。

最初は「いやいや! 印刷会社で働いていますから」と答えたものの、たしかにおもしろそうだな、とも思ったんです。また、当時は朝から晩まで働くハードワークでしたし、その会社で長く働き続けるキャリアのイメージが湧いていなかったのも事実。

それならば、自分の感覚を信じて進んでみようと決意しました。

まずは不動産の資格を取り、ヨーロッパで古い建物を見て学び、帰国したら不動産会社で修行して、いずれは独立する。

そんなプランを立てたんです。忙しい仕事の合間を縫って、10ヶ月間、宅建の資格取得の勉強を続けました。そして、何とか合格。印刷会社を退社して、ドイツに行くことにしました。

―― ビジョンを定めてからの実行力がすごいですね。満を持して訪れたヨーロッパでは、どんな経験をされたんですか?

滞在していたのは、ドイツのベルリン。「ここ、良いな」と感じたカフェや洋服屋に入り、覚え立てのドイツ語で「格好良いから、写真を撮らせてくれ」と伝え、その写真と所感をブログにアップし続けました。

「この空間を引き立たせるには、こういう要素が必要なのか」「崩れている壁があってもいいんだ」など、古い建築を美しく残すためのアイデアに溢れていて、いろいろな学びがありましたね。1年間という短い期間でしたが、そこでの体験は今でも大きな財産になっています。


――そして、帰国後はプラン通り不動産会社に就職されたのでしょうか。

はい。帰国後は、長野市で物件のリノベーションに取り組んでいる不動産会社に就職しました。働いてからしばらくしたのち、会社で古道具の販売事業がスタートすることに。その責任者になり、古道具屋を運営することになったんです。

ただ、当時は葛藤もあって。というのも、お客さんからしたら私がオーナーに見えてしまう。だけど、実際は私が選んだ事業でも、建物でも、商品でもない。仮に自分が心の底から良いと思っていなかったとしても、お客さんの前では「良いですよね」と繕わなければいけない。そのことが苦しくて。

そうした思いもあり、オープンから1年半後、独立し、地元・須坂で移転先を探し始めました。


――はじめは、葛藤を抱えながら古道具屋を行っていた。それでも、この仕事を続けようと思ったのはどうしてなんですか?

たしかに、ふつうに考えれば「古道具屋を辞める」という選択肢が浮かびますよね。でも、私は「続ける」という道を選んだ。それは、ここで辞めたら「中途半端に古道具屋をやっていた高島」という印象になってしまうから。だからこそ、続けなければいけないと思ったんです。

――なるほど。そして、須坂で現在のお店の場所を見つけたんですね。

いえ、実はこの場所には、不思議な巡り合わせでたどり着いたんです。どの物件で古道具屋をやろうかと街を歩いていたら、ひとつ気になる場所があって。大家さんを調べて、履歴書とプレゼン資料を持って行き、インターホンを押して「こういうことやりたいんです。貸してください」と頼み込みました。そうしたら「良いよ」と快諾してくれて。

――すごい、行動力が身を結んだんですね。

でも、建物の内見をしたり、くわしい条件を詰めていたりする間に、即決する買い手が現れてしまって。仕方なく、引き下がることにしたんです。大家さん夫妻は「あなたに貸すと言っていたのに、こういうかたちになってしまってごめんなさい。代わりに、うちに空いている倉庫があるので、もし良かったらそこを使いませんか?」と提案してくれました。その空き倉庫がすごく良くて。それが、現在の『古道具そらしま』なんです。

――そんなドラマがあったとは!

しかも「悪いことをしたから」と、破格の家賃で貸してくれることになったんです。それ以降、まるで息子のようにかわいがってくれて。オープンまでの片付けも手伝ってくれたり、ご飯も食べさせてくれたり。

ある日の散歩中、外のベンチに座っている大家さんの旦那さんの方を見つけて、一緒に腰掛けて、たわいもない世間話をしたことがありました。そのときの表情がとても素敵で、写真を撮らせてもらったんです。

しばらくして、その旦那さんは亡くなってしまったんです。


――そうだったんですか……。

でも、その時の写真を奥さんが遺影に使ってくれたんです。もう、「大家」と「店子」の関係を超えたつながりになっているのではと感じています。

古道具屋になったことで拡がった世界


――お店のことについても聞かせてください。2017年に須坂に移転してから、『古道具そらしま』は第一土曜日から次の金曜日までの、月7日間だけの営業。とても短い営業日だと思うのですが、なぜそうされたんですか?

須坂からも近い長野市は、水曜日が定休日の店が多いんですよね。そこで私も水曜日を定休にしてしまうと、その店主たちはずっと私の店に来れないことになる。どこかの曜日で定休日を設けてしまうと、たとえ月20日間お店を開けても、1日も来れない人が必ず出てしまうんです。

だったら、全部の曜日で営業した方がいい。でも、さすがに1ヶ月間毎日お店を開き続けるのはしんどい……。そうした考えで、7日間だけイベント的に店を開く形態にしたんです。

短く思われるかも知れませんが、こうすることで購買率も高まるんです。結局、物販は来客率よりも購買率の方が重要。100人来て1人しか買わない状況よりも、20人来て20人に買ってもらう方が良いですから。

――高島さんが考える「古いもの」の魅力はどんなところにあるのでしょうか。

古いものに魅力を覚えるというより、たまたま私が美しいと感じるものの中に、「古いもの」が多かったという感覚ですね。ただ、最近思うのは、私が美しいと感じる「古いもの」の多くは自然に帰るということ。いくら格好良いデザインでも、自然が分解できない化学素材を使っていたら違和感を覚えてしまう。だからこそ、『古道具そらしま』には極力プラスチック製のものは置かないようにしています。

私の場合は、もとの持ち主のストーリーやノスタルジーに惹かれることって、そんなにないんですよね。というのも、過去にとらわれてしまうと使い方の幅も限定されてしまうし、未来に適合した姿になりにくくなってしまいますから。大切なのは、次の使い手の暮らしに馴染むかどうか。気持ちよく使えてなんぼだと思っています。

――古道具をやりたかったわけではないところから始めて、それでも「半年で辞めては中途半端だ」という理由で、6年以上もお店を続けられてきた。人によっては「もう辞めてしまっても大丈夫」という見方もできると思います。それでもお店を続けているのは、どのような理由があるのでしょうか。

お店を持ったことで拡がった世界が、想像以上だったからですね。

たとえばあるとき、私が本でしか知らなかった憧れの人がお店に来てくれたんです。いろいろ商品を買い、それ以来ずっと通ってくれるようになりました。今では定期的に連絡を取り合う仲に。これって、私が『古道具そらしま』をやっていなかったらできなかった体験ですよね。

これから先、さらにまだ見ぬ豊かな景色が待っているかもしれない。古道具屋を続けているのは、そんな思いからですね。

ただ、辞める日は決めているんです。

――え、そうなんですか! その日はいつなんですか?

それは、誰にも言わないと決めています(笑)。辞める日を決められたのは、私が「古道具屋として生きた」と胸を張って言えるまでに、どれくらいの時間がかかるか見通しができたからです。それまでは、『古道具そらしま』を続けていきます。

人の生身に寄り添い、肯定する場所をつくる

――高島さんは、かつて花街があった浮世小路エリアにある小径のプロデュースもされていますよね。

その小径は、ドイツから帰ってきてすぐに見つけた場所なんです。自分が住んでいた街ってどういうところだったろうと思って歩き回っていたら、その小径に出くわして。「すごいところを見つけた!」と感じました。

当時は草もぼうぼうで、屋根が落ちている箇所もあった。だけど、「ここにカフェがあって、ここにアトリエがあって、ここに店があって……」と、完成形がすぐにイメージできました。そこから、気になる人に「入居してくれないか」と誘っていくようになりましたね。

小径の中の一棟には、写真家と刺繍作家の夫婦が入居しています。そこはもともと、アトリエとしてイメージしていた場所。刺繍作家の奥さんにぴったりだと思って紹介したんですが、夫婦の第一声が「ここで遺影の写真館をやりたい」という言葉でした。「アトリエ」という当初の自分のイメージを超える提案で、とても素敵だなと思ったんです。

そこで、棟の半分を刺繍のアトリエ、もう半分を写真館としています。このかたちは正直想像していませんでしたが、今は「もうこれしかない」と確信しています。「こういう姿にしたい」という自分のイメージを持ちつつも、それを超えた面白いことが起きることを実感しました。

――思い描いていたイメージを超えるものがつくられたと。現在は遺影の写真館や刺繍のアトリエ、カフェなどが建ち並ぶ小径ですが、どのような空間にしたいと考えているのでしょうか。

ある意味、テーマパークに近い場所にしていきたいです。というのも、私がやっているのは「街づくりではない」という自覚があって。

街という単位は、広くて漠とし過ぎている。その一帯を、隅から隅まですべて世界観をつくり込み、完成させるのは不可能です。でも、「ここからここまで」という境界が決められている小径だったら、完成した世界観をつくることができる。そのエリアに足を踏み入れた瞬間空気が変わり、時空が歪むような感覚。それは一種のテーマパークに近いと思っています。

ただ、一般的なテーマパークはフィクションで消費を促す場所ですが、その小径は人の生身に寄り添い、肯定する場所でありたい。「心が落ち着く」、「明日からまた頑張ろう」、「落ち込んでいたけれど少し元気になった」など、人として気持ちよく生きられるようになって帰ってもらう。

でも、まだまだ小径は「完成」していません。もうひとつ空いている建物に誰かが入居し、常時4つの店舗が開いて、2〜3人がいつも歩いている……そんな光景を10年、できれば20年くらい続けないと「完成」とは言えないと思っています。だから、あの小径ははじまったばかりなんです。

「ここにしかないもの」を大切にしたい


――どうして高島さんは、須坂で活動を続けようと思っているのでしょうか。

信じてもらえないと思いますが、私が小さい頃、駅前のショッピングセンターには原宿の竹下通りくらい人がいたんですよ。祖母も、その一角で洋服屋を営んでいました。

夏祭りのときには、多くの人でごった返していて、入り口から出口まで抜けきるのに1時間程かかったのをよく覚えています。でも、わずか20年ほどで多くの店は閉じ、人通りがまばらになってしまった。その光景を見ていたからこそ、「自分に何かできることがあれば」と思っていました。

ただ、この状況を決して悲観的に捉えているわけではなくて。逆に「もう何やってもいいのでは」と思ったんです。寂れてしまった街も、見方を変えればまっさらな状態ですよね。何をやっても、人の目には真新しく映ります。今の時代、ちゃんとおもしろいことをやり続ければ、どんな場所であろうがお客さんは調べて来てくれますから。



――高島さんが須坂に戻ってこられてから4年半。どんな時間でしたか

良いことも残念なことも含めて、想定内のことが起きた4年半でしたね。「須坂にしかない建物は残した方がいい」と考えているけれど、取り壊されてしまうものもある。でも、自分の持ち物じゃない建物を「残してくれ」というのはエゴですよね。残って欲しい建物が取り壊されてしまうシーンを、何度もみてきました。

だからこそ、少なくとも自分がやっているお店は着実に守っていきたいし、須坂で「古い建物を使ってお店をやりたいです」という人がいたら、全力で手伝おうと決めてきました。実際に4店舗ほど内装を手伝わせてもらって、よいお店をつくることができたと思っています。自分ができること、できないことを含め、「こうなるだろう」と予想していたことが実際に起きた。そういう感覚ですね。

――「須坂の街がこうなったらいいな」という想いはありますか?

これは私個人の想いではあるんですが、美しくないものがイヤで。「美しさ」って主観も入るから、押しつけるものではありません。それでも、今の世の中、どこにでもあるような景色が生まれ続けているのは、美しくないと思っています。

だからこそ、「ここにしかないもの」をどれだけ引き立たせられるか、大切にできるかが大事。少なくとも須坂には、「ここにしかないもの」を生み出していこうとする人たちがいる。その人たちの営みがある限り、その場所は美しくあり続けられるはずです。

とはいえ、安易な観光地にもなってもらいたいわけではありません。観光ばかりが先に立つと、暮らす人の住みやすさや楽しさが見えなくなってしまうし、消費され続ける街になってしまうから。外から人を呼び込むことを目的とするのではなく、「ここにしかないもの」を大切にして、よいものをつくることを目的とする。そんな営みを続けていれば、自然と外からも人はやって来ますから。

今の須坂は、芽が出て、つぼみがつき始めている状態。おもしろいエリアになるポテンシャルは、十分にあると感じていますよ。

自分の世界観を信じ、ピュアに追求し続けていく高島さん。

その真摯な姿勢が「ここにしかない」場をつくり、多くの人に愛される空間を生み出しているのかもしれません。

美しいものに触れたいとき、生身の自分を肯定されたいとき、足を運びたい場所がここにあります。

執筆:小林 拓水
撮影:小林 直博
編集:飯田 光平



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