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“みんなのサードプレイス”を目指して。大きく変わった満龍寺の5年間の歩みとこれから。<満龍寺 高津 研志さん・会さん>

須坂駅から末広町通りをひたすらまっすぐ進んだ先、民家が集まる山沿いに、ひとつのお寺があります。1582年(天正10年)から続く曹洞宗のお寺・満龍寺です。

この満龍寺を運営する高津家には、26代目になる現住職のお父さんと、ドイツ人で自身も僧侶になったお母さん、そしてDJやプロダンサーとしての顔も持つふたりの息子たちがいます。

ご家族の情報だけでもかなり濃密ですが、実際にお寺を覗いてみると、さらに驚きや発見が。

お寺の中には至るところに雑貨や照明、アート作品などが設置され、古道具やアンティーク小物、古着などが集まる雑貨スペース「キオスク」もあります。

お寺の中とは思えない、カルチャー感満載のキオスク。雑貨や古着は購入可能で、値段がついていないものは尋ねるシステム。

ご本尊のある本堂では、定期的にカフェや音楽イベントが行われるのだそう。

こうした、いわゆる“お寺”らしからぬ取り組みを始めたのが、息子の研志(けんし)さんと会(かい)さんです。固定概念を覆す斬新な企画は、テレビでも取り上げられるほど。

彼らが新しいお寺の形を模索し続ける背景には、ドイツでの経験から生まれた居場所づくりへの思い、そして出会ってきた仲間たちの存在がありました。

次期住職でもある研志さんに、この5年間における満龍寺の歩みと、これからについてお話を伺います。取材当日は、弟の会さんと、今満龍寺に関わっている仲間の皆さんも集まってくださいました。

ドイツで爆発。兄弟が感じたサードプレイスの必要性


ーーどこからお話を伺うべきか迷うくらい、すでに圧倒されてしまっているのですが、こうした取り組みの原点って何だったんですか……?

研志さん:一番の原点まで戻ると、僕自身の「坊さんって何だ?」という問いだと思います。寺に生まれている以上、長男だから成り行きでなった部分も大きくて、聖職者の立場にいる感覚も全然なかったんですよね。儀式も、ルールや形式に則ってやっているように感じてしまって。

そこで、2010年に一度お寺を離れて、母親の故郷であるドイツに留学することにしたんです。自分と向き合いながら、ひたすらドイツのカルチャーに触れました。その中で、ベルリンの一等地につくられた「ホルツマルクト」というエリアでよく遊ぶようになったんです。

ーーホルツマルクト。

研志さん:そこは都市型エコヴィレッジと呼ばれるエリアで、さまざまなお店や施設がぎゅっと集まっているんです。クラブやレーベル、シアター、ワインやビールの醸造所もあるし、住居やホテル、保育園まである。

ーーすごい、本当にひとつの村みたいな感じなんですね。

研志さん:「ホルツマルクト」は、かつてドイツのクラブカルチャーを牽引した、今ではネオヒッピーと呼ばれる方たちが運営しているんですね。彼らと話したり、そのコミュニティで遊んだりしていく中で、大人の憩いの場になるいわゆる“サードプレイス”がどれだけ必要とされているかを、痛烈に感じさせられたんです。自宅でも仕事場でもない、気持ちが休められたり、人と会って楽しんだりできるような場所。

それと同時に、今のお寺の在り方に疑問を感じました。そもそも仏教や禅の考え方の中には、自由に精神を解放するという部分もあるはずなのに、今は形式やしきたりにとらわれて、真逆のことをやっているお寺も多いのではないかと。

ーードイツに今の取り組みに繋がるヒントがあったんですね。どのくらいの期間滞在していたんですか?

研志さん:5年半ほどですね。2016年のはじめに日本に帰国して、しばらくは実家に戻って大人しくしていました。地元にいた期間が短かったのでほとんど誰も知らないし、まず慣れることが優先でしたね。

そこから少しずつ自分自身と向き合い、何かをやるにしても、まずは自分がドイツで見て感じてきたものを理解してくれる人が必要だ、と思って弟を連れてドイツに行きました。

ーーおお、ここで会さんが登場!

会さん:僕はダンサーなので、ダンスのスクールをやったりパフォーマンスをしたりしていました。研志とふたりでイベントをやったこともあったんだけど、「やっぱり一度ドイツに行かないとわからないよ」という話になったんです。

研志さん:話にならないなって(笑)。「とりあえず遊ぼう」というテンションで、自分がドイツで遊んできたところに連れていきました。そうしたら、弟が完全に壊れて。

会さん:爆発したよね。

ーー爆発……?! 

会さん:クラブに行ったときに、衝撃を受けて。この場では、みんな好き勝手な格好をして遊んでいるし、イベントは何日にも渡ってずっと開いているから、日本のような時間の制限もない。どんな自分でも許してくれるような空間がそこにはあって、その許容力みたいなものに完全にぶち食らっちゃったんですよね。

今までダンサーとしてパフォーマンスしてきたけれど、日本にいるときはやっぱりどこか生きづらさみたいなものがあった。「どうしたらいいんだろう」という気持ちを抱えた状態でそこに行ったら、爆発しました。

ーー日本での常識に縛られない世界に身を置いてみたら、なんかすごく肌にあった!みたいな感じなのかもしれないですね。

研志さん:少しずつ変わってきたとはいえ、まだ日本は自分をオープンにしづらいところがありますからね。やっぱり、自分らしくいる人たちの周りには同じような人が集まって、許容力のある空間になっていくんだな、と感じました。

会さん:「この爆発した状態のまま日本に帰るのはヤバい」ってなって、自分たちを落ち着かせるために、一度タイに寄ったんです(笑)。タイの海岸で、夜にずっと2人で話をしていましたね。「日本に帰ったら、うちらもやらなきゃね」みたいな。

ーー想像するだけでめちゃくちゃいいシーン。

会さん:「ドイツでのあの感動を、日本で感じられないのは悲しすぎるから」。そんな気持ちから、「みんながゆっくりできる、サードプレイスみたいな場所を作りたい」という漠然とした思いが共通認識になりましたね。

研志さん:それではじめて、「寺っていうめちゃくちゃ良い場所があるじゃん!」と気がついて。当時の満龍寺は、1年のうち360日は閉まっていたんですよ。

4月のご祈祷と10月の先祖供養、あとはお盆と年末年始くらいしか開いていなかった。こんなに土地があるのに、もっと有効活用しないともったいない。

ーーそれまで一切考えていなかった「お寺を使う」という発想に至ったのは、なぜだったのでしょうか。

研志さん:正直、小さい頃は満龍寺って使われていなかったから、暗くて汚くて、ジメジメしているイメージ。でも、帰ってきて改めて見てみたら「これ、整備するだけで超変わるのにな」と感じたんです。

そう思えたのは、20年以上前から母親が古民家を自分で改築していたのも大きいですね。自分でボロボロの空き家を改築したり、新しく土地を買って道場をつくったりしていたんです。僕が高校生だった頃は、「寒いのに、何が楽しくてこんなことをやっているんだろう」と思っていたけれど、大人になってから考えるとすごいなって。

ーーたしかに今から20年以上前に、と思うとすごいですね。先駆者だ。

研志さん:そういう存在が身近にいたからこそ、このお寺を再利用することだって、言ってしまえば古民家改修みたいなものだと思えたんです。直して使えばいいじゃん、と。そこから、会と一緒に片付けをしながら、お寺を使った遊びを始めるようになりました。

お寺を使って、お寺の常識を超えたイベントを


会さん:まず最初に「寺子屋」をやったよね。

ーーおお、まさにお寺を使った企画!

研志さん:寺子屋といっても、学校で習うような勉強をするのではなく、お寺の裏山で遊んだり、ほこらまで行ってその年の安全と山遊びの安全、五穀豊穣を願ってお参りしたり。

「あのとき山登りしたなあ」とか、「山遊び、面白かったな」という記憶が子どもたちの中に残ったらいいなと思って、小さな活動から始めていきました。


ーー「寺子屋」のような、お寺らしく聞こえる企画もあれば、風のウワサによると、エッジが効いたものや一風変わったイベントもたくさんされてきたとか。

研志さん:2018年に先代のじいちゃんが亡くなって以降、いろいろやってきましたね。たとえば、「テラシマス」という年に一回クリスマスに行うイベント。僕らは母親がドイツ人だから、クリスマスの文化がある家庭で育ったんですね。

クリスマスの特別な雰囲気とか、ワクワクする気持ちをみんなにシェアしたいし、お寺でクリスマスってなかなかないじゃないですか。それで「照らしてます」と「寺でします」を掛けて「テラシマス」(笑)。

ーーネーミングが独特ですね(笑)。

研志さん:お寺の中を全部照明で装飾するんです。アーティストやDJを呼んで、ご本尊の前でライブやってもらったり、古書店に本棚をプロデュースしてもらったり。いろんな仕掛けをした、カオスなイベントでしたね。

ーー「お寺 × クリスマス × ライトアップ」だけでもすでにカオスなのに、ご本尊の前でライブまで……。

会さん:「テラシマス」のために、県外から来てくれる人もいたんですよ。あと、「てるてるボウズの昼下がり」とかね。午後の気持ち良い時間に、研志がお話をする会。

研志さん:レコードかけてDJしながらね。2回開催して終わったけど、めちゃめちゃ気持ち良かったなあ。ただ、当時は毎月ランダムにイベントをやっていたから、忙しいときとそうでないときの偏りが大きくて、すごく不健康でした。

翌年からは、月の暦をもとに毎月、新月・満月・半月2回で、計4回のイベントを打つようにシステム化して。新月には、現実世界や日常生活から離れて、ゆっくりするような夜の企画「うつつ (現)」を、満月には陽のエネルギーをいかして、お話会やヨガなどを楽しむ昼の企画「うたた (転た)」をやるようになりました。

「だがしかし」という名前の駄菓子コーナー。言葉遊びが好きなおふたりらしいネーミング。

ーー基本的に、研志さんと会さんのおふたりで企画していたんですよね。企画に、ドイツで実際に体験したことや感じたことを取り入れることもあったんですか?

研志さん:そうですね。イベントが終わるときに「ああ、終わっちゃった……」ってなるのがすごく嫌だから、やるのなら何日間か開催したくて。たとえば平日から休日にかけて3日間のイベントにすれば、最終日にもなれば場はだいぶ柔らかくなるし、仕事や予定がある人でもどこかのタイミングで来られる。

ドイツのクラブも、金曜日の夜に開いたら火曜日の夜まで閉まらない、といった感じなんですよ。来る人を受容するようなイベントの在り方は、ドイツで遊んでいたときにすごく良いなと思った点だったので取り入れていました。

ーーとはいえ、月4回開催するとなると、企画するだけでもかなり大変そうですが……。

研志さん:システム化したことで、バタバタすることはなくなったけれど、楽しさよりも疲れの方が上回ってしまったところはあります。それまで毎年欠かさず行っていたドイツも、この年は一度も行けなくて「あれ?」って。

イベントを重ねるごとに人数も増え、場所としてもお客さんに対応しきれなくなっていました。そこで、キッチンを改修して飲食許可を取るのを兼ねて、一度満龍寺を閉めたんです。そのあとすぐにコロナ禍が始まったので、結果的に緩やかに過ごすことになりました。

気づけば仲間が増え、少しずつみんなの居場所になっていた


ーーなかなかイベントができないコロナ禍を経て、満龍寺での取り組みに何か変化はありましたか?

研志さん:昨年の4月に少しずつイベントを再開し、キッチンが稼働しはじめてからは、お寺の使い方や企画に対する本気度が変わったかもしれません。今までは近しい友人とそのまた友人くらいの輪だったけれど、さらに広げてより良い空間にしていくにはどうするべきかを会と話しつつ、トライ&エラーを繰り返している段階ですね。

たとえば、カフェ営業を始めて食事提供はできるようになったけれど、イベントに来る人数も以前に比べてどっと増えて、結局自分たちでは回せなくなってしまった。そこで、よくイベントに遊びに来ていて仲が良かった涼ちゃんに、カフェをお任せすることにしたんです。

中野市出身の吉越涼(よしごえ・りょう)さん。イベントをきっかけに研志さんや会さんと出会い、2018年には一緒にドイツにも遊びに行ったのだそう。

研志さん:涼ちゃんはもともとお菓子をつくる仕事をしていて、いつか満龍寺でカフェをやりたいって話してくれていたんですよ。ちょうど仕事を辞めたという話を聞いて「リョウちゃん辞めたらしいよ。チャンスじゃない?」って(笑)。

会さん:うちらの中で超ざわついたもんね。「このチャンスは逃せない!」って。

ーーカフェを任せたいと言われて、涼さんとしては率直にどう思いましたか?

涼さん:「どうしよう……」という不安は、かなりありました(笑)。でも、ここに来るとすごく楽しいし、少しずつ本来の自分の個性を出せるようになって、すごくうれしかったんですよね。もともとお客さんとして来ていたのに、いつの間にかポンッて中に入っていて。

昔からカフェをやってみたいというふわっとした夢もありましたし、みんなと一緒にやれたら楽しいだろうなと思って、引き受けることにしました。

ーー訪れる人の夢を叶える場にもなっている……すごい……。「サードプレイスをつくりたい」という思いでここまで駆け抜けてきて、実際の手応えとしてはどうですか?

研志さん:まず、お寺を訪れたことがほとんどなかった世代の人たちが、僕らの活動に興味を持って満龍寺に来てくれることが、この5年ですごく増えました。

満龍寺を好きでいてくれる人たちがいて、彼らにとって大切な場所になっているんだなと実感できたら、手応えを感じられるのかな。ここにいる彩華も、東京から泣きながら帰ってきたことがあって(笑)。

東京でダンサーをやっていた鈴木彩華(すずき・あやか)さん。仕事で会さんと出会い、満龍寺のイベントによく遊びに来るように。東京から隣村の高山村に移住してきて、もう5年になるのだとか。

彩華さん:恥ずかしい(笑)。

ーー何があったんですか!?

彩華さん:その日はダンスの仕事の本番で、疲れてヘロヘロだったんです。しかも風邪を引いていて。でも、どうしても満龍寺に行きたくて、1泊するためだけに須坂に来ました。そのときに、本堂でへたって号泣したっていう......。結局、翌日も帰れなくて2泊しました。

ーー正真正銘の「駆け込み寺」だ……。すてきなエピソードですね。

研志さん:当時の彩華みたいに、「帰ってこられた……」と言って訪れてくれる人たちの姿を見ると、満龍寺がいろんな人にとってすごく大事な場所になってきているんだと感じられます。ここに携わってくれる、僕ら以外の人が増えているのを見ると、ちょっとずつ変わってきたのかなと思います。

祐介(ゆうすけ)も一年前に仕事を辞めて、何人かの仲間と全国を旅する中でここに辿り着いたんだけど、結局移住していろいろ手伝ってくれてるしね。

仙台出身の八重樫佑介(やえがし・ゆうすけ)さん。一年前に東京の人材会社を辞めて旅人に。取引先の人に満龍寺をおすすめされて訪れたのだそう。

ーー祐介さんはなぜ、須坂市に移住してまで満龍寺に携わることにしたんですか?

祐介さん:僕自身も人生に悩んだ時期があって、仏教から何か救いを得たいという思いがあったんですね。お遍路参りをしたり、一週間だけ修行したりしたこともありました。でも、それを実生活にどう生かすかという、過程の部分が抜け落ちているものが多かったんです。

一方で満龍寺に来て思ったのは、別にここで何か説法されるわけでもないし、聞かない限り仏教について話すこともない。だけど、みんなの行動や言葉を含め、この場所自体に禅の要素が根付いていると感じるんですよね。背中を見て感じることがすごく多いし、話すことで自分自身を見つめ直すいい機会になるので、僕にとってはすごく特別な場所だなと思っています。

研志さん:いっぱい一緒に遊んで、仕事をして、喧嘩をして、繰り返すことで気付くこともあるし、出会ってきた人たちがこうして、新しい可能性を開こうとしているのを見るとうれしいですね。

お寺も住職の在り方も、さらに拡張していく


ーーここまでお話を伺ってきて、研志さんと会さんがタイの海辺で語り合っていた頃を想像すると、本当に大きく変わった5年間だったんだろうなと思いました。

研志さん:そうですね。でもね、今は正直きれいな面ばかり話しているけれど、その反対側には同じくらい、不安とか恐怖もあるんです。何が正解かもわからないし、田舎特有のやりづらさもあるし。コミュニティが濃くなれば濃くなるほど見せたくない面も見えてくる。

今でこそ、このチームでやっているけれど、数年前には全然違う人たちが関わっていて、やり方や意見が合わなくなって抜けていった人ももちろんいます。楽しそうにやっているように見えるかもしれないけれど、それだけじゃない。

ーー順調に階段を上ってきたように見える満龍寺にも、やはり“B面”が。

研志さん:そうそう。でも、満龍寺で一緒に取り組む中で、自分を見つめ直して飛び立っていった人たちがまた戻ってくると、結構面白いんですよ。予想もしてなかったものを持ち帰ってきてくれたりもする。一度繋がれば、道が分かれてもその繋がりがなくなることはないので。

ーーちょっと気になっていたのが、今までお寺との繋がりがほとんどなかった若い人たちにとっては、大事な居場所になっていく一方で、地域のお年寄りや檀家さんが訪れにくくなってしまうこともあるのではないかなと……。そこらへんは実際、どうなんでしょうか。

研志さん:もともとほとんど閉まっていたし、檀家さんも高齢化して、今は寺に行く習慣のない人たちの方が多いんですよ。今まで通りのスタイルでやっていけば、たしかにお年寄りの中には安心する人もいるのかもしれないけれど、新しいこともやっていかないと、どんどんお寺も仏教もすぼまっていく。世代交代しなければ、文化も継承されていかないですしね。

それに、全ての人が理解してくれるわけではもちろんないけれど、心意気の部分を汲んでくれる方は多いです。檀家のリーダーである総代さんの中にも「どんどん時代に合わせて変えていかなきゃだめだ」と言ってすごく応援してくれる方がいるので、頑張らないとなって。やり続けていくことで、信用と信頼を得るしかないのかなと、今は思っています。

ーーたしかに、自分の信念を貫いてやり続けることが、周囲の理解に繋がるのかもしれないですね。ちなみに、こうした活動についてご家族はどんな反応なんですか?

研志さん:両親の後押しがなかったら、とてもじゃないけどできてないですね。現住職と後継者の間の問題って一般的に少なくない話だけど、うちはラッキーでした(笑)。むしろ、現住職と先代は大変だったと思う。

じいちゃんは公務員で校長先生までやるような堅い人だったけど、父さんはヒッピーの世界にいるハードロッカーみたいな人だったから。昔からピンク・フロイドのレコードとかをガンガン聴いてるような。

ーーあ、お父さんも結構ファンキーなんですね(笑)。なんか、合点がいきました。

研志さん:そうそう。父さんも満龍寺を変えたいと思っていたけれど、じいちゃんが住んでいる間はそうもいかなくて、ずっと忍んで今までのやり方を守ってきた。じいちゃんが亡くなった今は、父さんができなかったことも含めて、後継者の僕や弟が変化を起こしている状況ですね。

一時期はずっと喧嘩しているくらいバラバラの時もあったんだけど、今は超仲良いです。個々で動くよりは2人の方が良いし、2人より3人、3人より4人。その4人が家族だったら、なお最強だよねって

会さん:何度も喧嘩して話し合って乗り越えてきたしね。愛情で守られている感じがある。

研志さん:父さんは、僕らがやるイベントのときも、お酒が入ったグラスを持ちながら本堂をウロウロして、最前線で遊んでいますよ。イベントに参加している同世代の子たちも、「あの人、住職なんだ」みたいな感じで、父さんの気さくなスタンスに惹かれてよく一緒におしゃべりしてます。

会さん:うちの母さんも、特別なライブのときは顔を出して、結構最前線で聴いてる。がんがんテクノ好きだしね。「なんでわたしが、この音楽にハマったのか分からないって」言いながら(笑)。

ーーめちゃくちゃいいですね......。今はお父さんが住職でいらっしゃいますが、研志さん自身が後を継ぐタイミングも考えているんですか?

研志さん:住職がそろそろ引退したいと言っているので、来年に向けて住職交代の準備を進めている段階です。それもあって、イベントの開催時期や回数を調整しています。

ーーおお、ついに住職になられるんですね。動き方も結構変わるのでは?

研志さん:うーん、そうですね。でも一人の坊さんが住職になったら、その土地からずっと離れずに寺を守っていくスタイルも、実は全然納得がいってないんです。もっとお寺の外に出て活動したいし、そうすることでまた満龍寺に来てくれる人が増えますし。

「あのお坊さんに来てもらいたい!」と思ったときに電話してもらえれば行く、みたいな。「ウーバー坊主」とか言ってますけど(笑)。気楽にいろんなところから声がかかる状態でいたい。住職としての在り方も、これから模索していきたいなと思っています。

ーー今後、研志さんがどんな住職になっていくのかも楽しみです。最後になりますが、この5年で感じてきた手応えや課題を踏まえて、今後満龍寺をどんな場所にしていきたいと考えているか、教えてください。

研志さん:今年はもう少し、満龍寺を拡張したいですね。もっとゆっくりできるスペースとか、何かやりたいことがある人に貸せるような場所とか。本来のお寺の役割って、イメージとしては公民館に近いのかなと思うんですよ。人が寄り合って、ハブになって、つながって。

お茶を飲みながら、誰かの日常の小さな悩みや今更聞けないことを話す中で、他の人も何か気づきがあったり、気持ちが楽になったりすることもあるかもしれない。そこから仏教の話に繋がるのもきっと面白いし。

満龍寺には子どももたくさん来るので、「こんな大人もいるんだ」というのを知って、自分の将来に繋がる何かのきっかけになってくれたらいいですよね。お寺って死んでからのことにフォーカスが置かれがちだけど、死ぬ前の人たち、つまり今生きている人たちの癒しになるような、繋がりやきっかけをつくる憩いの場になったらいいなと思っています

執筆:むらやま あき
撮影:小林 直博
編集:飯田 光平

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