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書評 文化の逆転 ―幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)

知的興奮の発露の著作

「暇は無味無臭の劇薬」というサイトをご存じだろうか。海外の掲示板とかで話題になっていることを翻訳し、まとめているブログサイトである。

記事内容は様々で、アニメなどのサブカルチャーから、「借用語だと知って驚いた自言語で使われている言葉」とか「外国語を話す時に文化の違いで困ってしまうこと」など、ネタとして面白いと作者が思ったことを幅広く紹介し、まとめている。一つ一つ面白い内容なので、ぜひ一読をお勧めする。

このサイトの管理人が書いた同人誌の一つが、今回紹介する書籍である「文化の逆転 ―幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)」である。

同人誌と思って甘く見るなかれ。著者の引用文献の量と質を見れば、そんじょそこらの学者など足元にも及ばないだけの知識と蓄積がある事は間違いない。

だが、同人誌の悲しさか、恐らく編集者の構成を受けてはいないのだろう。句読点の打ち方とかに問題がある。また同じような内容を、手を変え品を変え説明している事も多く、そこだけ見ると退屈に感じてしまう人もいるだろう。

しかし、そんなときは視点を変えてみてほしい。貴方が居酒屋などで座席に座り、たまたま前に座った人が非常に知的な人で、いろいろな事を知っている人だった。更に幸運な事に、貴方とその人とは馬が合って、何時間でも話しても飽きることはない。そういう人と話をするとき、貴方は「ついに話が分かる人と出会えた!」という興奮から、あれもこれもと話をしてしまうだろう。

「なぁ、面白いだろ! これ凄いだろ!! 俺はこれ凄い事だと思うんだよ・・・

という感動を、分かってくれる人に出会えたという喜びのもと、出来る限り伝えようとしている。これはそういう本なのである。編集者などの更生が入っていない、私のnoteのような、荒削りの、知的興奮の発露の著作なのである。だから素直に心を開いて、著者の知的興奮の渦に、気持ちよく飲まれていくのが良いのである。

評価の基準を生み出す根源の違い

絵画に限らず、美術作品を批評するとき

「何をもって美しいと見なすのか」

「何をもって素晴らしいと見なすのか」

という基準について、疑問を持った人は多いだろう。

私は素晴らしいと思う絵が、他人は汚いと言っている時がある。絵に限らず、音楽や劇などの芸術作品について、素晴らしいなどの評価が全員一致する事はない。

では、なぜ評価が違ってしまうのだろう。それは私たち一人一人の生まれ持った魂とか、育ってきた生活環境とか、様々な事が関わってくるから一概には言えない。もし言うならば、私たちの人生を振り返って、あの時こうだったから、私はこういう事を美しいと感じるのだ・・・と考察する事になるだろう。

さて、個人個人で違いがあるように、不思議なことに、国とか民族とか組織とか、集団においても同じ事が起こる。例として、日本人のわび・さびがある。おそらく日本人の99.9%は、わび・さびについて、体系化された教育を受けた事はないだろう。そもそも体系化されているかも疑問である。それなのに、なぜか日本人はわび・さびと言ったら、あああれかと思いいたる。

これと同様の事は、日本人に限らず、西洋人にも中国人にも、どの民族にもあるはずである。それは「人間集団」である限り、間違いないはずである。そしてこの違いを明らかにしないと、無用な衝突が起きる。

「Aの方が良い」「いいやBの方が良い」と、傍から聞いたらどうでもよい話であっても当人たちには重要な問題で、それで喧嘩になって、生き死にの問題まで発展する場合がある。大げさと思うなかれ。前の自分の書評「俺は書きたいことを書く」で紹介した、黒人意識運動に繋がる話なのである。引用すると。

彼ら(白人宣教師)の傲慢さ、そして真理、美、倫理的判断の独占によって、彼らは先住民の慣習と伝統を軽蔑し、これらの社会に彼ら自身の新しい価値観を吹き込もうとするようになったのである
ある男が、ひとつの集団に対して外来の概念を受け入れさせることに成功するとき、この集団は、その概念に熟達しているこの男(白人)によってしか特定の領域における進歩を評価してもらえない、永続的な生徒になってしまうのである

というわけである。異なる民族の美意識の価値観を自分たちの基準で批評し、良し悪しを決め、相手に自分たちの評価を押し付けるのは、国家間や民族間の経済力の差によっては、精神的屈服を生み出してしまう。結果、ある民族は自分たちの文化・伝統を否定し、消え去っていくという文化的ジェノサイドが起こってしまう。始末に悪いのは、評価を押し付けた側に罪悪感が生まれるかというと、はなはだ疑問なのである。自分たちが積極的に相手を否定したと意識する事は非常に少ないだろうから。

だからこそ、「どこから美意識の違いが来るのか」を考え、理解しないといけない。そしてこの違いを考える事は、哲学・宗教・信仰・自然観など、目に見えない価値について考える事につながっていき、そこには広大な知的興奮の大地が広がっているのである。

絵画からわかる『自然』と『魂』の理解の違い

本書の言っていることは、一言で言えば

「西洋の絵画は『黄金比率』に代表される普遍性を重視する。日本や中国は普遍性よりも『気韻生動』と呼ばれる『生きていて今にも動き出しそうな』絵を描くことを重視した」

というだけである。しかしこの結論に至るまでの説明を読むと、この3行に行きつくまでに、どれだけの労苦が存在したかが分かる。なぜなら著者は、「西洋とは何か」「絵画とは何か」「黄金比率とは何か」「なぜ黄金比率を良しとしたのか」「黄金比率は色合いにも存在するのか」「宗教画と風景画ではどう違うのか」「キリスト教以前には何が重視されていたか」・・・などなど、重箱の隅をつつくような疑問全てに答えていくのである。博覧強記とはこの事か。

一例として、絵画で『自然』を書くとき、西洋と日本とで、どのように違いがあるだろうか。『自然美』とよく言うが、西洋の自然美と日本の自然美とでは、どのような違いがあるだろうか。寺田寅彦は、西洋人は自然を「道具」とみなしていると言った。では日本人はどうかと言うと「自分に親しい兄弟かあるいはむしろ自分のからだの一部のように思っている」という。

単純なようだが人間と自然が西洋人の意識の中で切り離されているという点に西洋人と日本人の自然観の大きな違いがあるのである。

ゆえに「自然」の概念を、考察なく、西洋でも日本でも同じものだと思ってしまうと、大きな誤解とすれ違いが生まれる。それは絵画にも表れ、西洋における自然は、人間に従属するべき存在であり、それは「神>人間>自然」という不等式の中で価値を付けられる存在である。

ボードレールもまた人間が最下位の自然に近づくことは「獣性」であり「下降することの歓び」としたように人間より下位に属する自然に身をやつすことは決して褒められるような事ではなかった。

という思想の下での「自然美」の感覚が、西洋と日本とでは違う事は明らかだろう。では、人間と自然を分ける基準は何なのか。様々な例を挙げているが、ここでは一例として、『魂』のとらえ方の違いを上げている部分を引用する。

日本では輪廻転生という考えに馴染みあるせいで気付きにくいのだが人間が動物に生まれ変わるという考え自体が人間と動物の魂をある程度同等のものとして見ていなければ生まれない発想となっている。
ポール・クローデルは大事に飼っていた動物が死んだとき日本では僧侶が念仏を唱えてくれることに触れて「それがどんなにつまらぬものでも、消えて行くときに宗教による弔いに値しないような生命などない」とされ、ものにも同様の配慮がされていることを述べている。この事が彼の目についたことそれ自体が西洋では「弔いに値しないような生命」が存在すると考えられていたことや人間と動物の魂を区別して取り扱っていることを仄めかしているだろう。~中略~上智大学学長だったヘルマン・ホイヴェルスが「プシュケー」を日本語にする際、これを「霊魂」と翻訳することは「動植物にも霊魂があるということになり、人間の尊厳が失われる」ことになるので「生魂」と翻訳することを提案していた。 注:太字はガルベスが設定したものである。

このように自然観・魂のとらえ方が違っているのだから、表現の仕方としても違ってくるし、評価の仕方も違ってくる。その実例は・・・と話は続き、ある一つの絵画の裏にある、西洋と日本・中国の歴史、文化、思想、宗教などを余すところなく説明をしていく。

中には、それは拡大解釈ではないか。実際には異なる意味合いで言っていたのではないか。文脈をちゃんと理解して引用しているのか。など疑問を抱く人もいるだろう。実は私もそう思う。しかし、巻末の参考文献リストを見る限りでは間違いはないだろう。そう思わせるほどの文献の数である。調べようと思えば簡単に調べられるようにしている以上、自信はあるのだろう。

それに、私が感じた疑問は果たして正しいのか正しくないのかを調べようとしても、あまりに膨大だし難しい話のため、自分の仕事や他に興味ある事を捨ててまで調べようとは思えない。

だが、疑問点として頭のどこかに取っておくことはできる。それが何時か、何かの機会で「ああ、こういう事だったのか」と閃くことがある。その時、人は自分が成長したのだという感動を得ることができる。

もし良著の条件の中に、読んだ人に「愉快な疑問を抱かせる」ことを含めてよいならば、この本こそ良著そのものである。「読者の知識を増やす」「読者に知的興奮を与える」などは、間違いなく達成されているのだから。

読みにくい事は否定できないが、それでも、怒涛のように押し寄せる著者の知的興奮と感動の嵐の前に、読みにくさはいつしか、荒々しさとか初々しさを愛でる気持ちに変わってくる。それこそ、たまたま目の前に座った人が、馬があう友人に変わっていくように。

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