遺書代わりコラム その1

ずいぶんと長い間、死にたいと思い続けて、今も惰性で生きている。そろそろ決着をつけるべきかと思ったのが昨年の終わり。理想では、あと4年で死にたい。

死ぬと決めたところで、それまでは生きなければならず、生きているからには、ものを食べ、ものを考え、起きたり寝たり、金を使ったりするわけで、結局、死ぬことを望んでいる以外は、わたしは紛れもなく生き物である。生き物としてのわたしは、上から食べて下から出すように、何かを見聞きして、それについて考えると、どこかに出力したくなる。積極的にもの書きをする気持ちも薄れてきつつあったが、とりあえず、気張らずに、来たるべきいつかのための遺書代わりのコラムを書くこととした。

わたしの自問は過去形ばかりになった。わたしの人生は何だったのだろう、などと。健康で、放っておいたらいつまでも生きていそうなわたしは思っているのである。わたしの中で、わたしは終わった人であり、これまでいろいろなものを積み重ねてきたが、今はその蓄積の上に座って、ぼんやりしている。蓄積と言っても、その高さは膝ほどもないのだ。蹴飛ばせば崩れて、側から見れば、それがわたしの人生であったこともわからなくなるだろう。

わたしは生き物であって、“人”ではないのではないかと常々思っている。将来のために貯金をするとか、いついつまでに結婚し、子どもを持ち、家を建て、などと考えている人を見ると、別の星に来たのかと錯覚する。わたしが共感するのは、口の近くにハエが飛んできたから、それを捕まえて食べるカエルである。わたしも目の前にスパゲティが出てきたら即座に食べるが、そのときの気持ちはカエルのそれと同じだ。ハエとりカエルの一連の採餌行動が、その実、洗練された仕組みによって成立していることは明らかである。そこには大いなる自然の、畏敬の念を感じるべき業がある。わたしの採餌行動もそうだ。わたしはスパゲティがどこにあってどんな匂いがするかを感知できるし、フォークをうまく使えるし、赤いスパゲティと白いスパゲティの味を識別できるし、過去の経験を参照してこれが相対的にどのくらいおいしいかを評価できるし、ほかの誰かのスパゲティでなくちゃんと自分に向けて運ばれてきたやつを食べるし、店を出る前に金を払うこともできる。この一連の振る舞いがほぼ自動化されているのだから、人というのはカエルと同じくらいすばらしい。自分自身を省みて、人の工芸品的価値を再評価すると同時に、みんなが言っている“人”とか“人間”というのは何を指しているのかわからなくなった。わたしはだんだん、自分を含めて、カエルとか虫を見るような目で人を見るようになっていた。人はたしかに理性ある生き物だが、多くの振る舞いは自動的だ。人が何も考えちゃいない時間は、一般に信じられているより長いのではないか。それは生き物の偉大さであるが、我々が言う”人“の偉大さではないかもしれない。

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