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30歳おじさんが悶々としていること

最近思考を巡らせてばかりでアウトプットする機会が減ってしまっている。

無理矢理にでもアウトプットすることで、思考が整理され行動につながるのではないかと思い、書いています。

これから書くことは、自分の整理であり、誰かに向けたメッセージ性ははらんでいないことや、分かりづらい内容も多くなるので、モノ好きな方のみお読みください。ほぼ自分の振り返りようなので、公開するかも迷いましたが、なんとなく公開してみた。

大前提としての人生/哲学について

仕事をしていてもプライベートで過ごしていても、ここの前提が”それぞれ違う”ということを受け入れた状態でコミュニケーションとることができるかは私の中で結構大きい。

私の意見としては、人生は自分のためであり、自分の幸せのためで、この世に生を受けたからには、幸せになる権利がある。

だからこそ、自分を大切にしなきゃいけないし、自分自身の欲求や欲望、充実感はとても大事であり、これが何事よりも優先されるべきであると思っています。(同時に、自分自身がそう思っていると同様に、私の目の前に相対する人もそうであってほしいという思いも少し入っています。)

とはいえ、私は社会的な承認欲求が強いわけでもないし、物欲が強いわけではない。私自身の幸せは、壮大な自然や景色を見て感動したり、自分の近くにいる人が笑っている瞬間があったり、人の強い想いに触れて感動したりしているときに幸せを感じる。

この個人としての価値観はあくまでも個人としての価値観だし、他の人は全く別の価値観をもっていて当然だ。(だから人は面白い)

時々、自分の価値観が正しいと他人に押し付けている様子や、押し付けられている感覚、はたまた自分が押し付けてしまっているのではないかという恐怖すら感じる事もある。

ただこの”自分の価値観を押し付けちゃいけない”という価値観も押し付けたくはないので、私はこういう人生哲学をもっているんだということは、聞かれたり、話すべきときには話そうと思う。

ただし、自分が幸せになってこそ、他の人の幸せを心から願うことができるようになると、私は実感している。

参考:幸せのコップ理論

やらない善よりやる偽善なのか

価値観の押し付けに関連した情報に、善行がある。

結構これは根深い問題だ。

良かれと思ってやっていることが、本当にその人のためになっているのか。

こんなことは、本当にわからない。

宗教はいい例だろう。

”私が知っているこの教義/教え/気づき/啓示/悟りは、今目の前にいる人を救うことになる”

本気でそう思って、手を差し伸べてくれる人。この利他的な行動自体は美しいと感じることもできるし、そうじゃないと感じることもある。

でも、この正義感や哲学の押し付けは拗れ続けると、なぜか最終的には戦争のような大きな争いに繋がりかねない。

宗教や戦争の歴史を見てくれば一目瞭然だろう。

ただ、原則的に私自身はやらない善よりやる偽善派だ。

その瞬間に迷惑だと思われたり、拒絶されたり、深く傷ついたりすることもあるかもしれないが、何かしら役に立つかもしれない。

何より、自分の行動が誰かにとって役に立つかどうかなんてことまでは責任持てない。

ただ、目の前の人を尊敬し、自分自身の行動をいいものへと消化してくれることを信頼するしかない。

ナイフと一緒で偽善を振りかざして開き直って悪行やる人もいるので注意は必要。

「やりたいことを見つけよう」の暴力

キャリア相談や人生相談などを受ける中で、よく聞く言葉は「やりたいことなんてない」という言葉。

そりゃそうだ。

小学校のときから「あなたの将来の夢は」と聞いて育っているのだから、何かしらやらなきゃいけないと思うだろう。偉大な歴史上の人物の話を聞いて、何者かにならなきゃいけないと思ってしまうだろう。

キャリア相談を受ける中では時間が短すぎて伝えないこととして、大前提として、”存在しているだけであなたは尊い”ということは、いつも心で思っていることだ。

あなたがそこに存在していることで、あなたが生を受けて私と対話しているこの瞬間までに生んできた価値は計り知れないものだ。

それは、自分でも気づいていないものも含めて、たくさんある。このことに気づいていない、気づけていない、中には過去の経験から気づきたくないとさえ思っている人はものすごく多い。

冒頭にも書いたが、私の価値観としては、自分を本当の意味で認めて幸せにしてあげることが、一番のやりたいことになると思っている。その上でようやく、自分のことではなく、体外的な夢や野望が出てくる人がほとんどだと思っている。

色んな人がいて、やりたいことがすぐに見つけることができる個性を持った人も多くいるし、その人達が猪突猛進してきた成果は見過ごせないくらい大きなモノで、時には眩しすぎる実績に見えて、目指さなきゃいけない姿に視えることもある。

とくに10代、20代の若い時期はなんとなくスタートラインが同じような環境だと錯覚させられる環境が多く、周りを気にしてしまいやすい環境が多い。そうすると、どうしても一定の定義のもとの学力やコミュニティーを基準に隣の人間と比較してしまう。

自分は不幸だ。自分は無能だ。はたまた一方、自分は優秀だからやらなきゃいけない、ある値が他と比べて高いから有能だ、などの比較/対象を元に自己認識を自然に引き起こす環境が多い。

だけど、その比較してしまう偉人も友人も一人の人であり、たくさん苦しんで、たくさん悩んで、たくさん楽しんで、たくさん努力している。自分と変わらない人間なんだよ。一方で、大事にしている価値観や、特有の個性は本当に多様だ。誰一人同じ人なんていない。

だから、誰もが納得するようなやりたいことなんて本質的に必要ない。その人にとってやりたいことは、そのひとにとってのみ大事なもので、それが結果的に誰かの役に立ったと周りが勝手に評価するものだ。

そもそも、人生の尺度なんて簡単な指標で同一の基準で測るなんて不可能。多元的な軸があって当然で、それは自己で認識できないこともあり理解不能だと思う。

誰かの基準に沿って、やりたいことは何?っていう言葉に辛いと感じたら、そんな言葉なんてクソ喰らえだと思えばいい。焦って答えを出す必要はない。

人に今の自分を理解してもらいたい気持ちが生まれるのは分かるけど、全てを理解できる人はいない。自分を一番理解することができるのは、親でもなく、彼氏彼女、旦那妻、親友でもなく、自分自身。

焦らなくていいし、自分のペースでいい。そんな行き方でも許容される世の中にだんだんとなってきていると思う。

どうしようもない壁、絶望

今この瞬間、辛くて苦しくて死にたくなる想いをしている人は、果てしない人数がいる。地球規模で考えてしまったら途絶えることはないだろう。

そして、自分個人だけでは解決できない問題もかなり存在している。

貧困問題、食糧問題、戦争問題などはいい例。

これは、人類の共同体という単位で解決を目指すべきことだと思っている。個人としても絶対に自分自身の力では乗り越えられなかったことはこれまでの人生の中で数え切れないほどある。

例えば私は今休みで、カフェでNoteを書いているが、北朝鮮からテポドンが私の頭の上で落ちて死ぬなんてことがあったら正直どうしようもない。これは国際政治で解決すべき問題(ここではざっくり書くが、テクノロジーやコミュニティ、個人でもやれることは多分にある)。

これは極端な例だが、私個人としては自分の生まれ育った環境のみだったらこんなに豊かな人生は送れていなかった自信がある。私の環境の中でもたまたま得られた出会いとして、中学の部活で教えてくれていた先輩のお父さんの存在がある。たまたま、あの人に会えたおかげで私はたくさんのチャンスを得ることができました。

このように、たまたま、運良く得られた機会が山のようにある。その機会には心から感謝しているし、感謝してもしきれないほどの恩がある。

この機会を、少しでも増やしたい。自分が受けた運を一人でも多くの人にもいいきっかけを得てほしい。

絶望を今受けている人たちには、とっても無力だが、これから減らしていくことはできるだろう。

恩返しも含めて、そんな機会創出を、人生かけてやっていきたいと思っている。

まとめ

長くても2時間と時間を決めてばーっと書いた。もっと本当は枝葉の細かいところで悶々としているけど、なぜか最初に文書にしようとすると思いついたことを書いた。

他にもやりたいと思っていることと現状のギャップでたくさん悶々としている。自分に対しても世の中に対しても。

今やりたいこと、悶々としていること考える時間は楽しい


また、気が向いたら書こうと思う。


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