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どうやら今年の七夕は、8月25日らしい


目が覚めて枕元のiPhoneでTwitterを眺めていると、七夕のツイートがいくつか目にされた。
まだ目を開けることもつらいくらいの寝ぼけ眼で、そうか今日は七夕か、と思う。
そうして、そういえば七夕についてよく知らないな、と気づいた。
そのまま検索エンジンに“七夕”と入力すると、検索結果の1番上に“8月25日火曜日”と出てきた。

"七夕とは7月7日ではないのか……?"

まだ思考の鈍い頭でその下に続く七夕の記事をいくつか読み、七夕は本来旧暦の7月7日にやることや、中国から伝来したこと、それがもともと日本で7月7日に行われていた神事とまざりあって今の七夕に至ったことなどを知った。
中国でも日本でも、元は針仕事や織物に関する上達を神に祈る日だったとのこと。
海をへだてた2つの国が似たような祭を同日に行っていた、というのがなんだか興味深かった。

かつての7月7日という日に、一体どのような引力があったのだろうか。

今後何かのインスピレーションになりそうだな、と思いながらひとまず携帯を置く。
スクリーンタイムには“28分”と表示されていた。
こんな風にして毎日何気ないとっかかりから検索し、ちょっとした雑学を得る。
これは単に知的好奇心からくる行動なのだが、この習慣が日々の書きものや創作に役立っているような気がする。

知識は発想のタネだ。

朝食にバナナを摂りながら、せっかくだし今日は七夕について書いてみるか、と思った。



昔から願いごとをするのが苦手だ。
短冊に願いごとを書き、竹に吊るす。この、なんだか神秘的な感じのする行事のことは比較的好きな方だ。まっすぐいさぎよく伸びる竹という植物も好きだし、笹の葉が優雅にひらめく姿も目に楽しい。
だが、短冊に書く願いごとだけが毎年どうにも思いつかない。
それはきっと、願いごとが未来に向けてするものだからだ。今が楽しければいい思考が強く未来に対するビジョンの希薄な私には、いまいちピンとこない。

あるいは、すべての成功が100%自分に起因するものであってほしいのかもしれない。

たとえば私が魔法の短冊を持っていて、書いたことが本当に叶うとしたら。
そんな風に想像してみるが、書きたいことが特にない。やはり、結果に対する根拠がほしいし、本当に叶えたいことは自力が1番好ましいな、とも思う。誰かにあつらえてもらった成功は、居心地が悪い。


まあ、しいていえば宝くじは別だが。


だから毎年、“みんなが健康で最高の1年を過ごせますように”みたいなことを、書いてしまう。
思えば初詣の祈願も毎回こんな感じだ。
そうするとそれを見た周囲の人間から「心が優しい」などと言わるのだがそうではない。単純に、自分に使いたい願いごとがなく、それでも願いごとをしてみたいがために本当の意味で自力ではどうにもできないことを祈願しているだけなのだ。


あとこれは漠然とした感情だが、神に自分のことを願うのって気まずい。


周囲の人間のことは神になんとかしてもらうとして。
自分のことは自分でしよう。
そんなことを思って、今日もnoteを書いている。


もしも神の気が向いたら私のnoteを読んでくれる人を985479373人くらい増やして毎月サポートを9854892975872円ほどもらえるようにしてほしいが、それもすべては私の文章が面白いかどうか次第なので、やはり自分でどうにかするしかないようだ。










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