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人はみな、“物語“を持って生きている

noteを書き続けて400日が過ぎた。

365日を節目とした記事を上げてからそんなに日は経っていないように思うが、どうやらあれからまた1ヶ月程度が過ぎたらしい。
その間にも記事を書き続け、400日を通り過ぎたというワケだ。

noteを始める前は1ヶ月たりとも何かを続けられなかった自分が“気がつけば“、“いつの間にか”というようにして文章を書き続けているなんて驚きだ。

最近は1000字に満たないライトな記事が多いので若干ズルをしているような気がしなくもないが、それでも更新ボタンを押せば“○日投稿おめでとうございます”の画面が表示されるのだから細かいことは気にしないことにする。

何かを続けるにはとにかく“無理をしない”ことと“簡単である”ことが大事らしい。“簡単である”というのはつまり、“やり方がよくよく分かっている”ということである。

“文章を書く“というと、紙に文字を書く、或いはキーボードをカタカタやる、という行為が全てだと思いがちだが、意外とそうではないのだな、というのがこの400日の気づきで、書き続けてわかったことは、むしろ文字に起こす時間は全体の作業工程の三割程度だ、ということ。

『何か書こう!』と思い立って勢いよく画面の前に座っても、大抵の場合は何も思い浮かばない。むしろ『何かひらめいてくれ……』という虚しいプレッシャーで身動きの取れなくなることがほとんどだ。

文章を書くには下準備が大事だ。そうして、下準備がしっかりと済んでいれば実際の行為としての“書く“動作というのは驚くほど短時間で済む。

まずはテーマを決めること、そして、そのテーマを書くための材料を集めること。一般的な事柄であれば信頼できる媒体で情報を調べておくことが必要だし、個人的な体験であればその中のどの出来事に焦点を当てて書くのか、逆に何を書かないのか、という取捨選択が必要だ。そこにどんな感情が付随したのか、それを踏まえて主観的に書くのか、淡々と客観的に書くのか、というスタンスも“下準備”の一つになろうと思う。

そのあたりの準備が済めば、『何かひらめいてくれ……』という頼りない神頼みをしなくとも、自然と手が動いているハズだ。

テーマが決まっているのに筆の乗らない人は、大抵情報収集が足りていない。
“書く”ことは創作的な行為ではあるが、その反面、情報をまとめる“作業“が多く求められる行為でもあるのだ。

日記であれば生きているだけで“材料“が集まる。なにせ1日に発生した出来事やそれについて思考したこと全てが書くための情報になりうるからだ。エッセイであれば最近頻出しがちな思考ごとをまとめていけば1本の記事になる。
内容の良し悪しや記事の長短を別にしても、この“作業”を繰り返していけば文章は毎日書き続けられる。
つまりは、“やり方がよく分かって“いて、だからこそ私は400日も文章を書き続けてこられたのである。

先日、仕事の一環で人が文章を書くのをフォローする機会があった。
何に困っているのかヒアリングし、上記のような内容を伝えたところ、『すごい!書ける!』と喜んでいたのでなんだかこちらも嬉しくなった。また、毎回1週間待っても上がってこなかった原稿が1日で書き上がっていたので多少は助けになれた達成感もあった。


世の中には魅力的な“ストーリー”を持った人が実にたくさんいる。

そうしたストーリーがもっともっと世に出て欲しい、と思う。

SNSが発達した今、それが必ずしも文章でなくてもいいのだろうが、書くことと同じくらい読むことの好きな私にとっては、魅力的な文章が増えて欲しい、と思うのだ。

その手助けに、何か自分のできることはあるだろうか?

今は何も明確でないし、自分自身、文章表現に関してはまだまだペーペーの身だ。それでもありがたいことに“ライター”と名のつく職についていて、人よりも文章に携わる機会は多い。そんな経験を、今後少しでも“魅力的な文章“の役に立てられたら、サイコーだ。


(もしも文章に関してのお悩みやお困り、その他質問などがあればコメントでこっそり教えていただけると、嬉しく思います)



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