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投稿50回 感慨にふける

note を始めて、今日で記念すべき(かな?)50回目の投稿となった。「よく続いているものだ。」と感慨にふける。近ごろは何かにつけて感慨にふけりがちなのだが、今日もまたふける。 *「ふける」の漢字は「耽る」です。

本を読むことは好きだったが、文章を書く習慣は無かった。会社員時代も文章を書くのは、業務上の連絡や報告と稟議書ぐらい。悪筆が故に手紙は書かない。まあ筆不精の部類だったろう。

作文を始めたのは、仕事を引退し自粛が続き「あれ?!  オレ日本語が下手になってないか? まずいぞ!」と思ったからだ。「毎日ひとつ作文を書こう。」と年頭に誓った。そんな経緯(いきさつ)で、訓練としての ”作文” が始まった。「思うことを的確に且つ簡潔に文章化する」をスローガンにした。

元旦から毎日、ただただ EXCEL に日本語を書き綴った。内容は、評論風、提言風、報告、懺悔と様々だったが、誰かに見せるつもりはなかったので、単なる ”ひとり言” であり ”ボヤキ” だった。

勧めてくれる人がいて、2月下旬から note で、書きためていた文章の公開を始めた。公開すれば読者ができる。しかし、私は不特定の知らない誰かに対して「伝えたいこと」「教えるべきこと」が何も無いことに気付いた。

行き当たりばったりで続けた noteが、これまで49編。また感慨にふける。だが今日に至るまで、私の note には未だ ”背骨” が無い。不思議と木曜日ぐらいになると、何か題材が頭に浮かんできて、どうにか週一の掲載は続けてこられたが。

これから何を書いていこうか。私は何が得意分野で、何が求められるのだろう。今まで書いてきた49編を振り返ってみた。手書きで全てのタイトルを書き出し、内容を分類して、いただいた ”♡スキ” の数を一覧にした。

「う~ん、そうだったのか~」出来不出来もあるのだが、おおよその傾向は見えてきた。本日の投稿は、今後の方針を表明して締めるつもりだったが、もう少し考えてみたいので、先延ばしにする。

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もう一つ別の話題。私の note 11月22日「向田邦子を読む」に、最近の週刊文春のことを、”ゴシップ偏重” で “意地悪風味” と書いた。

すると、その3日後発売の週刊文春12月2日号で、林真理子さんが週刊文春に激怒していた。先日亡くなった瀬戸内寂聴さんに関する記事の見出しに対してである。「敬意に欠ける。間違った認識を与えかねない」と憤っている。また「故細木数子氏の見出しを隣に並べているのも作為的」だと。
ちなみにライバル誌の週刊新潮は、尊敬の念溢れる記事だったそうだ。

同じ号に成城大学森教授が、「読者をありもしない疑惑へ誘導する意図が明らか」と、小室圭さんに関する週刊文春の報道姿勢を批判する記事も掲載されている。

私の言いたかったことを、奇しくも両氏がタイムリーに発表してくれた。その他にも、まあまあ頻繁に意地悪で下衆な表現や構成が見受けられる。変わってしまった古い友を見るようで、何だか悲しい。

私は1977年から週刊文春を読み始めた。大学生だった私にとって週刊文春は "芯を食った正義" だった。「将来どうしても許せない理不尽に出会ったら、週刊文春に駆け込もう」などと思ったものだが今は昔。今や場当たりな正義を背景に、いたずらに事を荒立てて、世間を煽る媒体になっている。40数年の付き合いだったが、そろそろお別れの時かなと思う。

私は、”意地悪” ”嫌味” ”苛める”  ”威張る” の 4I が嫌いだ。
私の note は ”謙虚” と “優しい眼差し” の基本方針を守っていこう。

< 了 >

P.S. 49編を分類した結果として、今回の週刊文春について書いたような
 「もの申~す!」的なものは、”♡スキ” が少ないようでした。

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