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ここらへんの史跡をゆく⑤~ 岐阜城

岐阜城は、鵜飼で有名な長良川の真横にそびえる金華山山頂にある。現在ある建物は、古文書などから形状を類推して造られた模造天守だ。
(調べるとその竣工は、私の誕生日の12日後だった。同い年の66歳。今年は補強工事が予定されている。)

長良川から臨む金華山と、頂に小さく見える岐阜城
タイトル画像は、天守から見る長良川

これまでこのシリーズを書くために、清須城と岡崎城へ行った。どちらも初めてだった。岐阜城もこの度初めて訪れた。 "にわか歴史マニア" ぶりが窺 (うかが) われる。

麓から山頂の岐阜城までの高低差は約300m。難易度の異なる4つの登山ルートがある。同行の細君に「一番楽なルートを歩いて登ろうよ。」と提案したところ「絶対イヤ!」と即答を得たので、ロープウェーで上がった。

ロープウェーを降りてから城までは、
更に水平に300m 高低差30mを残す。

岐阜城 (当時は別名称) は1200年代初めから砦として存在していた。戦国時代になり斎藤道三の頃城が築かれ、以降斎藤氏三代の居城であった。1567年織田信長は、斎藤氏を滅ぼし美濃の国を平定した。その際、土地と城の名を「岐阜」に改めている。

(例によって? ) 織田信長の住民票の変遷をまとめた。 左から‥
住民登録年 城名 場所 転入時年齢 居住年数
1534年 勝幡城  稲沢市   (出生)     4年
1538年 那古屋城 名古屋市   4歳   16年
1554年 清須城  清須市  20歳     9年
1563年 小牧城  小牧市  29歳     4年
1567年 岐阜城  岐阜市  33歳   12年
1579年 安土城 近江八幡市 45歳     3年
1582年 本能寺の変で斃(たお)れる

住民票の変遷から信長の半生を見てみる。二十歳で、清須城を奪取し尾張を手中に収める ~ 小牧城から美濃の制圧を目論む ~ 岐阜城を軍事拠点として上洛を見据える ~ 安土城を設け政治拠点とする ‥ と確かなステップアップが見て取れる。

今川家を滅亡に追い込み、長年 "目の上のたんこぶ" だった美濃を平らげた信長。岐阜城の天守に立ち眼下に見下ろすその先に、次なる野望の輪郭がはっきり見えていたのではないか。

岐阜」は信長の命名による。"" には "分かれ道" の意味があり、"" には "大きい" の意味がある。尾張の僧侶が進言したとか、地元の禅僧の間でその呼び方が存在していたとかの諸説があるが、これから「天下布武」を掲げる信長に、「岐阜」の名はジャストミートだったに違いない。

遠くに見える山の向こうが近江、さらに進めば京に出る。

時は巡り関ケ原の戦いが終わり1601年、徳川家康は岐阜城の廃城を指示した。信長を想起させる城郭や「岐阜」という名前を家康が嫌ったと喧伝されるが、単に要塞のような山城はもう不要との判断だったのかもしれない。

江戸時代、藩の名前としても「岐阜」は使われなかった。しかしかつての岐阜城下は尾張藩領に組み込まれ "岐阜町" となり、そこに "岐阜奉行所" が置かれ名前は残った。明治になり廃藩置県が行われた際「岐阜」が県名に採用され、信長由来の名前は完全復活を遂げた。 

< 了 >


"ザワつく金曜日" で紹介されたという "中鉄砲きなこ餅" を買いました。

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