見出し画像

HERO?(『マトリックス』批評)

過去に実施した国語科特別演習「視覚芸術と近代」の最終レポートです。
演習では、映画『マトリックス』を中心に扱い、映画『2001年宇宙の旅』を補足として鑑賞しました。

 「マトリックス」という映画の大きな魅力といえばアクションシーンだ。独特のカメラワークで繰り広げられるアクションは、見た人を魅了する。ピストルの弾を避けるシーンは特に有名だ。
 この映画からストーリーという要素を外してみると、どれほど当たり前のことが見えなくなっていたかということに気付かされた。

 アクションシーンでは一般的に、殴る、蹴る、の行為が当然のように行われる。また、銃が使用されるのも珍しくない。
 この映画の中で最も銃の使用が多かったのは、ネオとトリニティーがモーフィアス救出するシーンだ。ネオとトリニティーはモーフィアスを助けるためにかたっぱしから警備員を掃除するように銃で撃ち殺していった。(相手はデータなので「倒していった」というのが正しいのかもしれないが、マトリックスの中で死ぬと脳が認識してカプセルの中でも死ぬはずなので「殺す」という表現にする。)
 映像としてはとても素晴らしく、流血もしないため美しくもあった。基本的に殺される人間もどこにでもいるような人で、個人の個性が殺されているため死んでも観客はあまり気に留めないようになっている。
 とはいえ、この行為が大量虐殺であることにかわりはない。そのはずなのに、このシーンを最初に見たとき、僕はストーリー上からネオとトリニティーが「HERO」だと、「正しい」と認識していた。そのため、この場面を「かっこいい」「すごい」と感じただけになってしまった。いつのまにか、僕は、ゲームの感覚になってしまっていた。つまり、僕は「人」としての感覚が薄れてきてしまっていたのだ。

 この問題は僕だけでなく現代社会全体にいえることだ。アニメやゲームが流行る中、子供たちにすら命の大切さが十分に教えられていない。「HERO」という言葉に酔ってしまっている。
 それなら、「HERO」とは一体なんなのだろうか。

 「HERO」は人を救ってくれる存在と定義される。
 だが、脅威から人を救った後のことまで踏まえて考えてみると、本当に「HERO」は人を救ったといえるだろうか。
 まるで浦沢直樹の『20世紀少年』のようだが、世界征服を企む悪の組織にヒーローが立ち向かっていくというありきたりな話を例にあげて考えてみたい。
 この場合、「HERO」が勝利し悪の組織は壊滅し平和が訪れました、という形で終わることが多い。でも、ここでいわれる平和ってなんだろう。現状を維持すること、日常を守ることなのか。全体として社会が何か変わったかと言えばそうでもない。当然、一般の人々は、「HERO」たちの活躍すら知らないのだから何も変わらない。悪の組織が壊滅しても残酷さ、傲慢さなど人の悪い部分は変わらず、もちろん戦争はなくならない。
 ならば、いっそのこと悪の組織が世界征服をしてしまったほうが、かえって世の中は平和になるのではないかと僕は時々思ったりする。

 要するに、マトリックスの中の裏切り者と同じ考えである。マトリックス内での正義と秩序を守るエージェントに任せておいたほうが、人間は楽しく幸せに暮らせるかも、ということだ。まあ、彼はあまりにも歪んでしまって、決して好ましい性格ではなかったが。
 正義なんてものは、これだとは決まっていないのだ。
 第二次世界大戦中、日本にとっての悪がアメリカにとっての正義だったのがいい例だ。だから、「HERO」といっても特定の人に向けてのものにすぎず、誰にとっても「HERO」であるような存在になれる人なんていない。人にはそれぞれの考えと覚悟があるのだから。
 だから、我々はしっかり「人」としての登場人物を見ていくということで、「人」としての感覚を取り戻せると思う。
 また、人間性を感じることによってさらに映画というものを近くに感じられるだろう。

 映画にはそういう人間性がテレビのドラマよりも顕著にあらわれるのだと思う。映画は意志を持って観賞しようとする人に向けて作られているので、作り手の考えや願望などがよりはっきりと表れる。これも映画の大きな魅力だ。
 だから、僕は、ストーリーだけを追うのだけではなく、登場人物の人間性のような隠されたメッセージにも注目しながら、もっともっとたくさんの映画をみていきたいと思う。

(中学2年生)

Photo by Markus Spiske on Unsplash

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?