ブラックボックス解体新書(永田希『書物と貨幣の五千年史』レビュー)
これはアーサー・C・クラークの言葉だ。そしてその魔法=科学技術は、我々を夢のような世界へといざなってくれる。
ところが、ナポリではそうではないらしい。
ナポリの人々は、自動車が壊れても、街頭で見つけた木の棒を取り付けて、すぐに走れるようにしてしまう。もちろん、それはまたすぐに壊れるが、彼らは完全に修理してしまうこと自体を拒否しているという。
現在のナポリ人がどうであるのかは知らないが、これは魔法に対する拒絶とも読める。自分の手に余る魔法は、何を引き起こすか分からない。だから魔法は「不気味」だし、それでも使うというなら、魔法を信仰するしかない。
そういえば、「アップル信者」なんていう言葉もあった。その言葉の意味や良し悪しはともかく、多くの人は、テクノロジーという魔法の「不気味さ」に目をつぶって、ともかくこれを信じることにしている。
ところで、昨年7月、アメリカで「修理する権利」に関する法律が可決された。
そう。多くの場合、我々は、自分の所有する製品を修理する権利を有していない。この事実に、気づいていただろうか。
これに対してメーカー側は反発している。特に、製品の安全性が低下することへの懸念が表明されているようだが、例えばフランスでは昨年1月から修理のしやすさを示す「修理可能性指数」の表示が義務付けられている。
前置きが長くなった。
永田希の『書物と貨幣の五千年史』がやろうとしていることは、この社会のあらゆる部面に入りこんだ「魔法」の仕組みを明らかにすることだ。その「魔法」は、本書のなかでは「ブラックボックス」という言葉で表現されている。ブラックボックスとは「内部があきらかになっていないもの」(p.4)のことだ。
すべてをブラックボックスと呼ぶこと自体に、あまり意味はない。あらゆるものには内部があり、それは一定の手続きを経なければあきらかにはならない。これは当たり前のことだ。ここで重要なのは、それを敢えてブラックボックスと呼び、開こうとすることによって、一見関係なさそうな複数の対象から共通した要素を引き出そうとすることである。
例えば、第一章のはじめに取り上げられている「電子決済サービス」「電子書籍」「マンガアプリ」「スクショ」などの技術は、スマートフォンというそれ自体ブラックボックスであるツールと不可分のものだ。そして、ここでは様々な「手間」を減らす「仕組み」が利用されており、結果として「人々はますます不可視化(ブラックボックス化)に気づきにくく」(p.35)なる。
このように、本書では様々な時代の様々な技術に内包されるブラックボックスを開いていく。金融と貨幣、印刷技術と文学、果ては人間と時間性の問題にまで切り込んでいく様は、さながら知的エンターテインメントだ。
そして、筆者自身が語っているとおり、この本の原稿は「アップル社のiPhoneのメモアプリを使って書かれて」(p.19)いる。ブラックボックスを恐れるでも、信じるでもなく、それを開くための動作として、まずは使い倒してみる。閉じられた箱は、開かれることを待っているのだ。まずはこの本というブラックボックスを開けることから始めてみてはいかがだろうか。
鵜川 龍史(うかわ りゅうじ・国語科)
Photo by Edvin Vasilionok on Unsplash
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