東北縦断の旅 ⑨弘前
大湯をあとにし、いよいよ今回の旅最後の青森県に入ります。
やってきたのは青森県と秋田県の県境にある十和田湖。
約3万年前、旧石器時代に形成されたカルデラ湖です。十和田火山の山頂に水が溜まって形成されたものであり、将来的な噴火の可能性もあるそうです。
とはいえ、現在は広く美しい湖で、多くの観光客でにぎわっていました。
湖沿いの小道を歩いていくと建っている湖畔の十和田神社は、蝦夷のアテルイと激闘を繰り広げた、平安時代初期の征夷大将軍坂上田村麻呂が建立したという言い伝えがあります。
高村光太郎の傑作と言われる「乙女の像」。
高村光太郎は彫刻家高村光雲の子として生まれ、父の技術を受け継ぎ、戦前の日本の彫刻界をけん引しました。また、詩人としても才能を発揮しています。
この「乙女の像」は、光太郎の晩年、1953年に完成したブロンズ像です。
弥生時代中期の稲作跡が見つかった垂柳遺跡です。1980年代に発掘された遺跡で、それまでは東北地方北部に稲作は伝わっていなかったと考えられていましたが、この発見により、かなり早い段階で東北地方にも稲作が伝わっていたことがわかりました。
前回の大湯環状列石でも触れたように、すでに、縄文時代から全国的な交易網は誕生していたので、大陸から九州北部に伝来した稲作がその交易ルートに乗って東北地方北部にも伝わった可能性は非常に高いでしょう。しかしながら、当時の品種では寒冷な気候には適応が難しく、あまり定着しなかったのでしょうか。
弘前市内に到着しました。ホテルに荷物を置き、街に出ます。さて、街では弘前ねぷたの準備が進んでいます。チケットを買って、夜の祭りに備えます。
祭りが始まるまでの間、弘前城の見学に行きました。
弘前藩津軽氏の居城として江戸時代初期に築造された弘前城。元々は五層六階の天守閣があったそうですが、築城後20年ほどで落雷により焼失し、この三層天守閣が再建されました。姫路城や大阪城など、その他の有名な天守閣に比べると小さく(日本で最も小さい三層天守閣)、櫓ぐらいの大きさです。
先ほどの天守閣やこの三の丸東門は江戸時代のものが現存していて、重要文化財に指定されています。
城から出ると、初代津軽藩主津軽為信の像がありました。
為信はもともと大浦氏を名乗っており、東北地方北部に勢力を築いていた戦国大名、南部氏の配下にいました。
しかし、「三日月の丸くなるまで南部領」とうたわれ、南部氏の最盛期を築いた南部晴政の跡継ぎをめぐり、南部氏では嫡男南部晴継と養子石川信直の後継者争いが発生しました。その間隙を突き、1571年に為信は謀反を起こして信直の父石川高信が入る石川城を攻め落として自害に追い込み、さらに浪岡城を落城させ浪岡御所と称された名門の北畠顕村(南北朝時代の北畠顕家の末裔)を滅ぼし、津軽地方を制圧することに成功します。この頃から津軽氏を名乗り始めます。
一方、旧主家の南部氏では、跡継ぎ争いに勝利した信直が南部氏を継承し、父の敵である為信と敵対します。
しかし、その頃西日本では豊臣秀吉の天下統一が進んでおり、津軽為信は最上氏を通じて素早く秀吉と好を通じ、小田原征伐にも従っています(ちなみに南部信直が秀吉に惣無事違反を訴え、為信は危うく討伐されそうになりましたが、巧みな外交力で乗り切っています)。
秀吉が亡くなると、今度は徳川家康と関係を深め、関ヶ原の戦いにも東軍として参戦しました。なお、この際に石田三成の遺児を保護して津軽に連れ帰り、杉山氏を名乗らせ、石田三成の子孫は代々津軽家に仕えることとなりました。
さて、いよいよあたりも暗くなり、大通りで弘前ねぷたが始まります。
ねぷた(ねぶた)は古より七夕行事として津軽地方の各地で行われ、そこにお盆などの仏教行事も混ざり合い、江戸時代に津軽氏のもとで隆盛を迎えることになります。現在では8月の第一週に行う祭りとなっています。現在では、この弘前ねぷたと青森ねぶたがとくに有名です。
ねぷた(ねぶた)の語が成立する流れはいくつかの説があるようです。
詳しくはねぶた祭りのサイトをご覧ください。
写真を見てもわかるように、大規模で華麗な扇形の山車灯籠が数時間かけて大通りを練り歩きます。
コロナが収まり、旅行に行けるようになったら、夏はぜひ一度弘前ねぷたを見に行ってください。
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高瀬 邦彦(たかせ くにひこ・地歴公民科)