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嶋田 博子「「ひとのこと」という仕事」【全文公開】

嶋田 博子(しまだ・ひろこ)——京都大学公共政策大学院教授。
1964年生まれ。86年京都大学法学部卒・人事院入庁、英オックスフォード大学研究員(哲学・政治・経済MA)、外務省在ジュネーブ日本政府代表部、人事院人材局審議官等を経て2019年より現職。専門は人事政策、行政学。博士(政策科学)。主著『職業としての官僚』(2022年、岩波新書)。

 昨年上梓した本で、マックス・ウェーバーを下敷きに「天職」や「各人を導く内なる力(守護霊デーモン)」に触れたせいか、教え子たちから「自らのデーモン」について相談される機会が増えた。その一人から真顔で、「先生自身はどうして人事が天職だと気づいたのですか」と聞かれたのだが、そんな気づきはまるでなかったので、「ほかに食べていく道がなかったから」と、身も蓋もない本音を答えてしまった。
 それがきっかけで、進路決定までの経緯を改めて振り返ってみたのだが、中学三年の時に受けた進路適性検査の結果は「農林業」だった。インドア派、しかも鉢植えの植物でさえすぐ枯らす自覚があったので、受け取った時には面食らったが、人間関係で失敗しないよう気を張り詰めていた思春期のさなかで、その反動から、人と関わりの少ない仕事の項目ばかり選択していたのだろう。
 検査結果はそのまま忘れていたが、自分の適性などと言っていられる立場ではないことに気づいたのが大学三回生の秋である。誰もが知る大企業に勤務する先輩が教室に顔を出し、業務説明がてら夕食をご馳走してくれるという。はしゃいでゼミ仲間たちとついて行くと、振り向いた先輩が私を見て驚き、「あ、うち女子は採らないから」と言った。建物出口で見送った一同の後ろ姿は脳裏に焼き付いている。
 企業が採用しないならと国家公務員試験を受け、適性検査を思い出して農水省を訪問したのだが、二回目の面接時に「女性は去年採ったから今年は勘弁してほしい」と断られた。他省からも似たりよったりの対応が続く中、たまたま空き時間に立ち寄ったら内々定をくれたのが人事院だった。以来、現在に至るまで人事政策で生計を立てる身となったが、そんなわけで、情熱とはおよそ縁がない。三十年余りの官庁勤務を経て実務家教員として母校に戻った後、官僚全般をテーマとする本を書いたのは、長い不完全燃焼感を埋める代償行為だったのかもしれない。
 執筆に当たって取材したのは、私とは対照的に希望通りの省庁に入り、所属組織に誇りを持って順調に王道を歩んできた二十数名の現役幹部・OBである。彼らが語る「職業人生を導くデーモン」は、「世のため、人のため」「自分のためでも個々の利害でもなく、人のため」「国民全体のため」と力強く、揺るぎがない。
 ここまでは想定通りだったが、「仕事を通じて得られた喜び」を質問した時、天下国家に関わるスケールの大きな答えが返ってくるのではという予想に反し、挙げられたエピソードの多くは、困難を抱える身近な生活者にまつわるものだった。ストーカー被害者、二重ローンを抱えた震災被災者、放射線の危険下で出動する消防隊員、持ち家を願う低中所得者、派遣切りに遭って住まいまで失った労働者、洗髪容器の違いが区別できない視覚障碍者……。こうした人々のために自分の取り組みが役立ったのが嬉しかったと語られる。拙著に対する読者の感想ではこの挿話集への注目度が高く、「官僚の中にもけっこう良い奴がいると思った」「なんだかわからないけど泣けた」などのコメントが寄せられたのは、私にとって望外の「仕事を通じて得られた喜び」となった。

 九月初めに出張した欧州からの帰路、機内映画の中に“Living”(二〇二二)を見つけた。市役所を舞台とする黒澤明監督の「生きる」(一九五二)を、終戦直後の英国に置き換えたカズオ・イシグロ脚本によるリメイク版である。ほぼそのままの筋で英国が舞台となっても違和感がなく、官僚組織の機能不全や人間感情の普遍性が伝わってきた。
 ただ、個人的に衝撃だったのは、主演俳優ビル・ナイと、新人時代の私に黒澤版を観るよう勧めた上司N氏の面差しが酷似していたことである。N氏の訃報が届いたのは欧州に発つ半月前。その元上司が画面越しに直接語りかけてくるようで、この英国版との機内での邂逅には、偶然を超えた何かの意思が介在しているように思えた。
 有力省出身のN氏は、その後、政治任用ポストであるトップに上り、退官後も長く要職を務めた人物だが、公務員の心構えを語るあいさつでは、必ずと言ってよいほどこの「生きる」に言及していた。二十代で黒澤版を観た時は、息子夫婦に邪険にされて部下たちにも軽視される孤独、遊びも知らず過ごしてきた老いの悲哀に胸をつかれたが、ダイナミックな政策を数多く手がけてきたN氏が挙げるにしては公園建設の話は少々小さ過ぎないか、というのが正直な感想だった。一方、還暦近くなってこの英国版を観た時には、幹部官僚たちが語った前述のエピソードが次々に二重写しとなった。公務員が仕えるべき「人」「国民全体」が抽象的な大義ではなく、目の前にいる生身の一人ひとりだと得心したとN氏に報告すれば、「あんたは理解が遅いなぁ」とあきれながらもうなずいて下さったことだろう。
 そういう目で改めて振り返ると、自分の役人生活でもいくつか思い当たることがある。研究者の旧姓での論文発表を阻む通達、汚職で逮捕されてもそれ以前の特定日に在籍していれば満額支給される一方、勤務実績があっても特定日に育児休業中であればゼロとなるボーナス制度、ほぼ同じ仕事をしているのに、結婚休暇も夏季休暇も昇給もない非常勤職員、範となるべき官庁が長年にわたって水増し申告していた障碍者雇用。担当となってこれらの実態を知った時、なぜこれほど明らかな理不尽が放置されてきたのかと無性に腹が立った。
 解決に取り組もうとすると、頑固な前例踏襲やたらい回しに直面するのは「生きる」の描写そのままだったが、おかしさを愚直に訴え続けると、意外なところから手を差し伸べてくれる支援者も現れる。加えて、自分の過去の引き出しからもパズルを埋めるピースが見つかる。不祥事発覚時のボーナス差止め制度を作った際には、官庁に採用されなかった場合に備えて司法試験の二次筆記を受けた際の刑事訴訟法や労働法の勉強が役立った。また、知的障碍に配慮して実技中心の採用ルートを設けた際には、「公務員の能力検証は筆記試験で行うのが法令の要請」という反対に遭遇したが、「『筆記試験の成績と仕事の能力とは関係ない』とよく言われましたね」と昔語りをすると、席次がどれだけ上位でも女性は外す慣行を覚えていた相手は納得してくれた。無駄に思えた体験が役立ち始めると、その仕事は自分個人に課された宿題だという気がしてくる。決着前に後任に引き継いだものもあるが、いずれの問題も解消することができた。
 そういえば、人事院から正式内定が出る直前の最終面接では、課長の一人から「あなたは義憤を感じたことがあるか」と聞かれた。とっさに「自分も含まれるので適切な例ではないと思うが、属性次第で門戸を閉ざす雇用の仕組みには憤りを覚えた」と答えたが、本来、問われていたのは、身内や友人ですらない赤の他人の苦境に対する感度だったのだろう。それは疑いなく公僕の本質である。

 「にもかかわらず!」という決め台詞で知られるように、ウェーバーは、権力や暴力の中に潜む「悪魔の力と契約する」政治を天職とするのは、世間の無理解を乗り越える人並み外れた情熱と判断力を持つ者だけだと述べる。他方、学問については、生計の資を得る職業としての実情を淡々と語った上で、ただ憧れたり、待ち焦がれたりする代わりに、選んだ分野に専念して誠実に「日々の要求をこなす」ことだけを求める。そうした地味な営みは、各々をあやつるデーモンを見つけて従うならばたやすいことだ、と。
 「天職」を模索する学生たちは、野球の神様に手招きされて高みに上り詰める大谷翔平選手のような姿を自らに重ねるのだろうが、大多数の人にとって、就職は制約条件と偶然の産物である。ただ、どんな職場であれ、仕事をするうちに多くの課題に遭遇し、組織人であれば職制が上がるほどその難易度も増していく。その時に、自分が受けて立つ覚悟を決めて、それまで積み上げてきた知識や経験で戦い、その結果に納得することができれば、それも天から授けられた仕事=召命ではないか。

 人事を「じんじ」と読んで辞書を引くと、「身分や能力など個人の一身上に関する事項。『人事考課』などの用法」という第一の意味、「(天のなすことに対比する形で)人のなし得る事柄。『人事を尽くして天命を待つ』などの用法」という第二の意味が示される。一方、「ひとごと」と読むと、「自分とは無関係な、他人に関すること。他人事」という第三の意味となる。私にとって、第一の意味の人事が生計の手段となったのはたまたまに過ぎない。しかし、天災や人災のニュースに感情移入しやすい性分に照らせば、霞が関の片隅に場が得られたのは幸運だった。公務とは、あとの二つの意味の「人事」、つまり「他人事」のために「人としてなし得る事柄」を尽くすよう要求する仕事だから。
 冒頭の質問には、そんなふうに答えるのが正解なのだろう。ただ、私が学生にそう話す姿を友人たちが目撃すれば、みんなふき出すに違いない。学部時代にはウェーバーのくどい文体にうんざりして放り出し、役所に入ってからは「辞めたい」「辞める」が口癖で、そもそも望んでいたのは人との関わりが少ない職業だったのだから。結局、「ひとのこと」が続けられたのは、内なるデーモンの導きというよりも、上司や同僚という人間の姿をした辛抱強い守護者ガーディアンに恵まれたおかげでしかない。
 とはいえ、「生きる」の主人公の年齢を越した身となり、そろそろ受け取ったバトンを次世代につなぐ責任を果たさなければならない。まずは“Living”を観るように勧めるのはどうだろうか。教え子たちに理解されるのは、三十年以上経った後かもしれないけれど。収穫まで気長に待つ必要がある点で、いまの仕事と農林業とは案外近いような気もするのである。

―『學鐙』2023年冬号 特集「はたらくをひもとく」より―

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