批評・評論は論文とは違う。アートを語る時に「私」は必要か。
私は美術批評というものがわからないし、自分じゃ書けません。
と学芸員が言ったら、驚かれるかもしれません。
学芸員なんでそりゃ文章は書きます。お堅いものから柔らかいものまで。でもその文章のベースは、論文なんです。それをそのまま出すか、少しかみ砕くか、は媒体によりますが、何にせよ、私の文章はどこまでいっても論文だと自覚しています。
そもそもの話をすると、学芸員になるための定番コースは、文系大学の学部・大学院で美術史を専攻し、学芸員資格をとって、就職するというものです。私ももれなくそのコースです。
私はもともと日本の近世絵画史を中心に学んでいましたが、日本、東洋、西洋いずれを専攻しても、美術史という学問が軸になることは変わりません。だいたいの場合、学生のうちに美術史学会に入会して、学会発表を目指します。
この課程の中では一度も、批評や評論というものには出会いません。だから「何それ?」なのです。
美術史とは、誤解を恐れずに単純に言えば、大きな流れの中で作家や作品を位置づけ分析する学問です。作家がその作品を生み出した背景、つまり時代背景や人間関係などを、様々な資料から考察します。
そこに、私自身の主観は必要ありません。というか、作品分析と資料読解からいかに客観的な説得力を論文にもたせるかが大事なので、根拠のない自分の考えを混ぜようものなら「それってあなたの主観ですよね?」「これエッセイやコラムじゃないんだよ」と、教授や先輩からボコボコにされます。
そんなわけで、あくまで作品と周辺資料から読み取れることを語る、という手法を取ってきたわけですが、これだって万能じゃないと今頃になって気がつきました。
とまどうのは、現代アート、特に今現在、バリバリ活動中の作家を紹介しようとした時です。
現在進行形で、日々模索しながら、作風を次々と変え、新しいものを生み出すアーティストを前にした時、美術史的な考察はほとんど意味をなしません。その作品の断片と、過去の美術史に組み込まれた作家や作品を何とかつなげて、意味づけすることだってできなくはないですが、それだとこぼれ落ちるものの方が多いように感じます。
そこで登場するのが、美術史という学問とは違う、批評・評論というアプローチです。ようやく本題にきました。
まだ歴史的な評価の定まらない作家やその作品に正面から対峙するためには、美術批評が有効だと気がついたわけです、私。
そう思ったのは、批評家加藤典洋の『僕が批評家になったわけ』(岩波書店、2005年)というそのものずばりの本を読んだからです。
その中に、ものすごく極端にも思える振り切った文章がありました。長めに引用します(太字にしたのは私です)。
批評なんて学問の中途半端なものじゃないか、という自問がまず刺さりました。自分の主観で好き勝手言うだけなら、そんなの学問でも何でもないだろ、と私も思っていたからです。
しかし、その後の「本を百冊読んでいる人間と本を一冊も読んでいない人間とが、ある問題を前にして、自分の思考の力というものだけを頼りに五分五分の勝負をできる」という一文に批評の本質があると気がつきました。
「本を百冊読んでいる人間」を、いわゆる資料を集めて作品を分析しようとする美術史の手法だと置き換えてもいいでしょう。それに対して批評は、身一つで作品と対峙し、己の思考のみで作品とガチンコ勝負をするようなもんだ、そう私は解釈しました。
しかしいかんせん、美術史畑にどっぷり浸かってきた身としては、語り手としての「私」を表に出すことへの恐れがあります。「それってあなたの主観ですよね?」「これエッセイやコラムじゃないんだよ」という声が聞こえてくるからです。
それでもまずは、まっさらな自分自身で作品と向き合ってみようと思います。作品そのものの声を聞き、それを私の言葉で誰かに伝えてみることにしましょう。
きっとその先に、私なりの語り方が生まれると信じて。
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