伝わらない事

近頃は、沢山のものが目に入る、または受容出来る世の中だけども、俗に言う見えているものが全てではないという言葉に賛同する記事であり、人としての器を計りうる記事でもある。

例えば、嫌いな奴がいる。好きの反対は~という議論は置いといて、何故嫌いなのだろうか、発言が思想がまたは容姿が挙動が、もしくはそのすべてが気に食わないからだろうか。

不快だと感じる要素を持つから嫌いと判断するのか、嫌いだからなのかは分からないけど、とりあえず自らがAを受容してBという反応をしているわけである。

それはそれで1つの反応として良いと思うのだけど、αを受容したらどうなるのだろうか。もしかしたら、Bという反応は起きないかもしれないし、やっぱり起きるかもしれない。

人と人との関わりで、ある人物の全てを知っている他人はいないだろう。四六時中行動を共にしようが別の個体なのだから全てを把握するのは難しいだろう、自分の事ですら、とは言わないけど。

だから信じる神は違うかもしれないけど、飯の好みは合うかもしれないのである。特に人生を積み重ねるとその相反する反応は複雑になると思われる、経験が増えるから。

さらに言えば、その人が見せた一面はその人の中ではたった1割の事でしかない事もあると思う。蟻を踏みつぶしていたと思えば、捨て猫には慈愛を見せるように場面によって人の行動が変わるのは当然の事のようにある。

なぜ子供が純粋だなあと言われるか、それは10割だからであると思う。年を重ねると、10割だった感情は希釈されていくと思われる。希釈というか、拡散、分散というか。

ある1面のみで人を評価したり、判断するのは楽しくないと思うし、歪だ。想像し、仮説を立てて、検証してみて、また1つの判断というか解釈を下す事で純粋なものが見えてくるはずなのだ。

でも、その人の表現1つを取ってその人があーだこーだというのは仕方がない。何故なら1割だろうがなんだろうが、その表現をした事実があるからである。それなのに、見えないものを評価してくれというのは、精神異常者じゃないやばい奴がまかり通ってしまう。

ただ、いきすぎないレベルで1割ないしその表現を生んでいるものを考える必要があるのではと思う。それを考えたら国のトップへの意見て、ある1部のものはすごい事だと思う。

僕は割とそれをいっちゃあお仕舞いよ、みたいな事を言っているらしいのだけど、僕は正論とか綺麗ごととか振れた表現は好きだ。し、何故それらが状況によっては柔軟性が無くあまりよくないものとされているのかが、よく分かっていない。

たった今、”正論”とそれに関連するワードを少しだけググってみたけども、ひどい言われようであった。もしかしたら、自分を見つめなおす必要が?とまで考えてしまったけど、1筋の光が差し込んだ。

正論で言い負かすのが良くないという事である。僕は決して正論を相手を傷つけようと思った訳では無く、正論は1つの基準として示そうと思っている事に気づいた(それで傷を負っているかもしれないが)。

相手を言い負かそうとして、相手が言い返せずに自らが上に立っている事を感じる(その気持ちは味わったことはあるが)為に、使っているのであれば、その言われようは分かるのだが、中には議論をしたくて使っているパターンもここにあった。

ただ、上下のような構図になりがちなので、それが今を形成しているのかもしれないと思うと、えも言われない。し、それこそ1割だなあと感じた。

つまりは正論であろうが何だろうが、少ない根拠で人とか色々、判断するのは平和じゃないし、面白くないのだ。

まあ結局何が言いたかったのかというと、

空気と行間と活字が読めればコーチングなんてわけないという事であるw

まあ、読めっていうのは暴論だよなあ、、、

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