ブラインダー

コロナ禍で思ったのは、未成年を規則に守られる存在、成人を自立した存在とした場合に、自立した存在の自律した行動によって規則に守られる存在が守られる規則は影響を受けるから理不尽だなあというか、可哀そうだなあという事である。

その方らがより良い活動を行うために自分は存在している訳だが、教育というのは何を伝える事なのだろうか。

教育は洗脳だとよく言うが、それは一つの側面を見た場合では?とも思う。

ある事についての知識が0(ぜろ)であった場合、ある事についての知識を1つ伝えて0から1にするのは教育だろうか。分からない。

無論、言葉の捉え方にもよる。

確かに知識を授けてはいるが、それは可視化されるという事でもあり、可視化されれば、それが良く、善く見える。というかそれしか見えない。

というのは、洗脳に近いのではないだろうかと思った。

自分の洗脳という言葉のイメージの1つに、選択を狭小させるというイメージがある。

では教育は選択肢を拡張するのかというと、特にそんな事は無いと感じる。

では、知識を沢山授けていけば良いのかというと、授けるという事と提示するという事はそれを選択して欲しいからするものだと思っている。

何が言いたいのかといえば、確かにより良い方に進んで欲しいとは思っている。

でも選択するのは自分ではないので、知ったこっちゃない。

性善説では無いけど、ど正論であればより良い方に進んで欲しい。が可視化するだけで、その選択については尊重を前提として口を挟むべきではないと思うのは他人事だろうか、意志薄弱だろうか。

ある者によって選択肢が少なくなっている環境の厳しさと、選択肢は可視化されており選択についての自由と妥協が混在する環境の厳しさは異次元であると思う。

もちろん、組織が大きく動いたり、正にしろ負にしろ結果を出すときは組織内の環境は偏っている事が当然の如くである。

そうすると郷に入っては、ではないが自由であった選択が少なくなる。

良い悪いという水準なのだろうか。そしてそれは、御上の水準による。

教育と洗脳という言葉しか知らないからこうなるのである。

多分、もっと適当な言葉があるはず。選択が限られるから、教育が洗脳になるのである。そういう流れもあると思う。

だから1つの事を授ける時に、何を言っていいのか分からない。

ただ本来、可視化されない面を可視化する事によるメリットはある。

そこから、どうなるかは個人内の素養にお頼みしたいところである。

近道を提示してなお、その近道を通らないのには理由があるのだろう。例えである。

ん?より良いとか、近道とか、提示出来るんですか?出来てるんですか?


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