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ラストレター


 漫画小説のストックも尽きたところで、今週から水曜あたりに何か一つレビューをアップしていこうと思う。基本はアート関連を多くしたいところだが、現在、展覧会が見られないので、当面、映画や書籍中心になるかもしれない。

 というわけで、今回は岩井俊二監督の「ラストレター」。これはちゃんと映画館で観た。

 というより、前に感想を書いてあって、すっかりアップするのを忘れて、もういいかと思っていたのだが、なんとなく思い出したので、ひとまずアップしてみる。アップするにあたって、少し書き直したが、忘れてる部分も多いので、内容に事実誤認があるかもしれない事を先に記しておきたい。

 全体的な感想だが、個人的に主人公とほぼ同世代なせいか、電話や手紙の距離感に共感できるところも多く、描かれてる時代がしっくりきて、思うところがいろいろあった。


(以下、ネタバレ)






(ちなみに冒頭のツツジの写真は、映画と何も関係がなく、自分が撮ったものをなんとなく貼ってみただけです)





(以下、感想)

 全体的な感想を言うと「とてもよかった」。落語の一席のようなファンタジー性と現実の機微が交差する良い映画だった。最後の祝辞のオチも効いている。高校時代と現在を書く事の二重性をあそこまで見事に文章化している事に拍手を贈りたい。

 とはいえ、話は話のための話という感じで、全体がご都合主義で進んでいて、そこに違和感がないでもない。しかし、演出がうまいので、そのご都合主義でもリアリティを感じられる。というのは、いつもの岩井映画の感じだが、そこは映像の撮り方、役者の佇まい、音の使い方、そんな所のリアルさじゃないかとも思うし。そこが「映画」のよさだろう。

 岩井俊二の映画は「映画は(あるいはドラマは)元々嘘なのだ」と言う前提をうまく利用しているものが多いように思う。前作の「リップヴァンウィンクルの花嫁」は、その嘘を詐欺師的な風景に重ね合わせて、リアリティを出していたが、今回、嘘を最もらしくするために一番感心したのは役者の年齢の操作にある。

 と言うのも、主要メンバーの年齢の中で実年齢に近いのが主役の裕里しかいないのだ。これは大人の側の松たか子も子供の側の森七菜もドラマの中の実年齢に近い。だから、主役だけはこのドラマの中で、なんとなくリアルだ。

 逆に言うと、それ以外はファンタジー感が強い。福山雅治は本当は松たか子の2歳上ではないし。広瀬すずも高校生ではないはずだし。神木君に至っては、なんで神木君?と登場時に違和感を持つほど、高校生ではないので、これはかなり変なキャスティングだ。

 しかし、その「変さ」が逆にこの物語のファンタジー性と主人公の心情のリアリティを強化しているとも言える。そもそも高校時代の3人が設定と同じような年齢であったなら、神木君と森七菜の距離感はかなり違ったものに見えるはずだ。

 いや、そもそも、これだけ年齢差があっても、神木君が森七菜を意識しないのはおかしいだろうと言う気がしないでもないが、しかし、実年齢的に神木君と森七菜が離れているので、まあ、どちらかと言われれば、広瀬すずの方だよなという気にちゃんとさせるのが、この映画の上手い所だとも思う。

 この年齢差による結果的な効果としては、やはり、先輩の先輩感が増し、ある種の高校時代の年齢差の「距離感」がリアルに表現されている事が大きい。大人になってみると、高校の3年間の違いはほとんど一緒みたいなものに思えるが、当事者にとっては一年の違いが大きく感じられると言う二重性がこのぐらいの年齢差の方が表現しやすいのかもしれない。

 大人になった福山雅治と松たか子も年齢差により、先輩感は保たれている。それを強化するように旦那はもっと年上だが、こうしたある種のファンタジーに包まれながら、日々の生活を過ごす、あるいは、ちょっとだけ外す裕里の描き方がこの映画の肝だろう。

 物語は途中から鏡史郎を軸として進むが、そのスイッチのタイミングも非常によかった。鏡史郎という手紙(ファンタジー)を象徴する人物のみがドラマを進め、物語が核心に進み、最後また裕里と会う事によって、現実へと戻るような。

 高校時代に報われなかった裕里が最後、大人になって(それもただの握手によって)一番報われた感じになっているのも良い。裕里にとっては最もファンタジーだったものこそが現実となる事で物語の連なりを決定的なものにしているように思う。

 それはある種アイドル化させられた未咲のその後や、その未咲と結ばれた阿藤の人生のその後とも対比として重なり、それが最後の祝辞に効いてくる。

 映画しか見てない我々からすると、未咲は祝辞を読む側であった為に過度にこの祝辞に縛られ、高校時代に閉じ込められてしまったような気もする(という風に作られてるのだろうが)。しかし、裕里には、それはない。であるが故に裕里にのみ初恋の記憶が「想い出」として美しく残っているのではないか。

 結果的に言って、「小説家になれるよ」という未咲の言葉がその後の鏡史郎の人生を規定してしまうほどの大きな言葉になってしまったのだとしたら、祝辞を書き換えた鏡史郎の文章もまた未咲のその後の人生を規定してしまう程、大きな言葉になってしまったのだろう。そして、その後、鏡史郎が小説(手紙)を書く事により、未咲の人生に決定的な影響を与えてしまったのだと思う。

 こうして、言葉、その中でもそれを濃密に体現する「手紙」という存在が、時として思いもかけぬ大きな力を宿していく事が巧妙に描かれていく。これは、スマホの普及した現代だからこそ感じられるある種の郷愁のようなものもあるだろうが、それと共に今でもまだ有効であるのかもしれない「手紙」というものの持つ潜在的な効果を改めて認識させてくれる部分でもある。そんな所もこの映画の巧い所だなと素直に感心し、冒頭の感想につながるのであった。


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