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野の花野草アート協会10周年に寄せて

こんにちは。株式会社ガジェログの鯉渕です🌻

弊社はWeb制作会社を主軸に樹脂粘土を使用して野の花や野草を表現する、野の花野草アート協会を運営しています。
野の花野草アート協会は花や野草をモチーフに、心を豊かにするアート作品を制作する教室です。
今回はガジェログの副社長でもある、代表理事の小玉さんにインタビューをさせていただきました。Web制作会社という全く異なる分野から、なぜ野草アート協会を立ち上げたのか?その原動力や、今後の展望について伺いました。


野の花野草アート協会発足のきっかけ

ーー 協会を立ち上げられたきっかけを教えてください

小玉:もともとは、私が役員を務める会社の中で、新しい事業の創出ということで、「家元ビジネス」について色々と調べていました。お花や書道だけでなく、ビーズや押し花など、様々な資格制度のあるホビー教室の運営が盛んでした。何か私たちにも、できるものはないかということで、まずは、講師のできる先生が必要という話になり、以前より長い付き合いのあったアートフラワーの講師をしていた榛沢先生に声をかけさせていただきました。

ーー アートフラワーはどんな特徴があるのですか?

小玉:アートフラワーの作品は、染色した布を葉や花弁の形に切り、コテを使用し様々な花を表現し、とても素敵な作品作りを楽しめます。結婚式のブーケなども、私が20代の頃、このアートフラワーが主流でした。ところが、時代が変わるにつれ、住宅環境の変化などもあり、仕上がりの大きな作品をいくつも家に飾る人が少なくなったように思います。

私が先生のお宅に遊びに行った際、久しぶりに会った先生は、アートフラワーでなく、細い根っこのついた里芋と、そこから伸びた葉を粘土で作られていました。それはまるで本物のようで、すごく驚いたことを今でも覚えています。 その時に、野に咲く可愛らしいネジバナの作品も見せてくれました。とても儚げで、それはそれは可愛らしく、小さな薄紅のピンクの花が一瞬で、子供の頃によく遊んでいた原っぱへと連れて行ってくれました。懐かしくその精巧さに心を奪われました。

当時、榛沢先生は地域の児童館で教室を開催していました。丁寧な作品作りや、教える事が得意ですが、自分では教室の運営や生徒の集客などは難しいと仰っていました。それならば、私がそれを形に出来ればという想いから、野の花野草アート教室を始める事になりました。インターネットにおいては「野の花」「野草」等のワードで検索している方も多く、関心が寄せられているものだという事も分かりましたので、そのまま「樹脂粘土 野の花・野草アート協会」というネーミングにしました。

樹脂粘土で作る野の花野草アートとは?

ーー とてもリアルなので作るのがとても難しそうですが、実際はどのように制作されるのですか?

小玉:作品を作る際には、本物の植物をよく観察して作っていきます。
ぱっと見ると、とてもリアルなので難しそうに見えると思いますが、初心者の方でも楽しみながら作っていただけると思います。 葉は葉脈や茎、花は花芯、花びら、がく等のパーツを、ひとつずつ丁寧に作っていきます。それらを本物と同じ一輪の花に仕立て、束ねて自然のままに咲く姿を形成していきます。 パーツを作っているうちは地道な作業にはなりますが、少しずつ組んでいくと、徐々に完成していくのが面白く、達成感もありますよ。
小玉:私の母の世代、パン粘土フラワというものが流行っていましたが、進化した樹脂粘土は風合いも軽く、より薄く、葉や花のリアルさを表現できるようになりました。

ーー 枝の部分も、とてもリアルですが、何で作られているんですか?

小玉:枝の部分に使う粘土はワインのコルクを細かくしたものを粘土に混ぜて作っていましたが、最近はコルク粘土というものが手に入ります。これを普通の粘土と混ぜて使うと草花だけではなく、木や枝の風合いも本物のように作ることができるんです。

詩画作家 星野富弘さんとの出会い

ーー 詩画作家 星野富弘さんとの出会いを聞かせてください。

小玉:作品を作っているとき、「そういえば、こういう自然の植物の絵を描いている方がいたなぁ。」と、ふと富弘さんの本を思い出しました。
子供のころ、書店で働いていた母から「夏休みにこれだけは読みなさい。」と星野富弘さんの本を渡されました。
母から「この人はこの絵を口で書いているんだよ」という話を聞き、とても衝撃を受けたことをよく覚えています。 富弘という名前はうろ覚えで思い出せたので、ネットで検索すると群馬県に美術館がある事が分かりました。

無謀にも野草アートと何か一緒にできないかと思い、思い切って星野富弘さんの美術館に連絡をしてみました。学芸員の方から「星野の作品と一緒に展示することは200%できないと思います。」という返答でした。それでも諦めきれず、「一度、作品を見てほしい」そう言って、群馬の美術館まで行かせていただきました。 実際に作品も見ていただくことができ、「これ、本当に粘土で出来ているんですか?」と、とても驚かれ「この作品だったら、何か一緒にできる可能性があるかもしれない。」そう言ってくださいました。
そして当時、美術企画出版事業部を持つ、グロリアアーツ株式会社の代表をされていた、小﨑さんという方を紹介していただきました。
小﨑さんは、私の会社まで作品を見に来てくださいました。「富弘さんの原画は難しいかもしれないが、カレンダーを額装したものなら一緒に飾れる」という事になり、銀座アートホールにて、初の合同展示会「星野富弘花の詩画と野の花野草アート展」の開催が決定しました。そして、小﨑さんのはからいで、体調管理に大変気をつかわれていたこともあり、なかなか会う事が難しい状況の星野さんに、直接お会いすることが出来ました。

野の花野草アート協会を始めたことによって、ありえなかったことが奇跡的に実現したのです。 子供の時に母から、すごい人がいるよと渡された本を読み、その記憶はずっと私の中にありました。その、星野富弘さんと実際にお会いした時、そこに導かれたことに運命を感じずにいれませんでした。
後に星野さんのご自宅に招いていただいた際、私の作品「ふきのとうとつくし」が部屋に飾られており、とても嬉しかった事を覚えています。

生まれ育った町で星野さんの詩碑をみつけた

舞岡ふるさと公園に佇む星野富弘さんの詩碑

ーー 小玉さんの地元である、戸塚で開催された展示会、星野富弘さんの詩碑について教えてください。

小玉:私は、横浜の戸塚区平戸町というところで生まれ育ちました。
近くには農家や自然山林保存地区があったり、幼少期は空き地で日が暮れるまで遊んで過ごしました。地元の戸塚でも展示会がしたいと思っていましたが、なかなか良い会場が見つかりませんでした。
そんな中、小崎さんが戸塚に良い会場を見つけてきてくださり、地元で展示会を開催することが決定しました。 自分の生まれ育った場所で富弘さんの作品と一緒に展示会ができることがとても嬉しかったです。

戸塚で展示会をやるならと、何か話題が欲しいなと思い、ネットであれこれ検索していたところ、偶然どなたかのブログで、星野富弘さんの詩碑が戸塚にある事がわかりました。 場所を調べてみると、「舞岡ふるさと公園」という場所でした。当時は、富弘さんの詩碑について見たことも、聞いたこともありませんでした。

ーー まさか地元に星野富弘さんの詩碑があるなんて素敵な偶然ですね。
どのような経緯で詩碑が置かれる事になったのか気になります。


誰かが勝手に作ったのではないかと思い、思い切って公園の関係者に連絡をし、どなたが、どのような経緯で公園に詩碑が置かれたのか尋ねてみました。当時、小林さんという女性の方にお話を聞くことが出来ました。 もう何年も前に「舞岡ふるさと公園」は元々横浜市で「舞岡ふるさとの森」として、近代的な公園をコンセプトにつくる事が決まっていました。 小林さんは、この素晴らしい谷戸の風景を壊すのはもったいない。 自然をこのまま留めて残したいという強い想いがありました。 舞岡ふるさと公園は私が通っていた高校の横にあり、私が卒業した後に作られたことを知りました。学生時代、マラソン大会で走った田んぼや畑道は慣れ親しんだ場所でもあった為、これにもまた、ご縁を感じました。
その公園計画の際に、自然を残すことに賛同してもらいたいという小林さんの想いがあり、有志の方達も含め数名で横浜市に働きかけをしていました。 しかし、市民の方々は近代的な公園を求めている人も多く、そのままの自然豊かな公園を残すには多くの市民の賛同を集めなければならず、また、金銭的にも難しい状況でした。しかし、小林さんは諦められずに、どうすれば想いが届くのか考えていたそうです。 周りの様々な意見もあり、小林さんが心折れそうになっていた、そんな時に戸塚駅の書店に入ると偶然、富弘さんの本が目に留まり、思わず手に取り開いたページの中で「マムシ草」という詩を見つけたそうです。

”ただひとつのために生き、ただひとつのために枯れてゆく草よ
そんなふうに生きてもおまえは 誰も傷つけなかった”

自然の草花はただそこに咲いて、ただ枯れていく。誰も傷つけたりしないのに人間は、自分たちの都合でたくさんの自然を奪ってきた。
小林さんは、この詩にとても感銘を受け、横浜市民のみなさんにわかってもらいたいと、行動しました。まだ、現在の富弘美術館がない頃でしたが、どうか、まむし草の詩を詩碑にさせてほしいと連絡を入れたそうです。なかなか返信はなく、しばらくして電話をかけてみると、少し電話口で待たされた後に「良いですよ」と許可をいただけたそうです。その後、富弘さんの文字のデータが送られ、詩碑を作る事ができたそうです。

私は、自分の生まれ育った戸塚に星野さんの詩碑があることに、更なる運命を感じました。 富弘さんに詩碑の事をお話すると、30年も前の事なので、当の富弘さんも、館長もすっかり詩碑の事を覚えていませんでした。
富弘さんが、戸塚の展示会の際に、どうしても実際に詩碑を見に行きたいという事で、普段は車で入る事が出来ない場所でしたが、横浜市に申請し、緊急用の車道を使って詩碑を一緒に見に行くことが出来ました。近所の保育園の子供たちも大勢集まり、みんなで記念撮影をしました。後に、富弘さんが展示会に外出することが出来たのは戸塚が最後になったということを聞き、あの日の富弘さんの笑顔が忘れられません。
そして、 富弘さんは「小玉さんが詩碑を見つけてこなければ、まったく忘れていたよ。俺が死んだら、あの詩碑を墓だと思って、時々苔の掃除してほしい」そんなことを笑いながらおっしゃいました。世界でたったひとつ。富弘さんの詩碑は今も舞岡ふるさと公園に佇んでいます。

野の花野草アート協会10周年の歩み

ーー  最後に、10周年を迎えた率直な感想と、野の花野草アート協会の未来についてメッセージをお願いします。

「野の花野草アート協会」も今年10年目を迎えます。
協会代表講師の榛沢先生も80歳になられました。協会を立ち上げてから、ご縁をいただいた星野富弘さんとの展示会も数多くご一緒させていただきました。富弘さんのファンは沢山いらっしゃいます。中には、星野さんの作品を見たいのになぜ、他の作品が飾られているのか。というご意見もありました。小崎さんや美術館の方々のご協力もあり、富弘さんの作品の邪魔をしないよう、寄り添う形で野の花野草アートの発信もここまで続けてこれました。私にとって、かけがえのない宝物です。

最初は、家元ビジネスで、何が始められないかという仕事の一環で発足した協会でしたが、続けていくうちに、私のライフワークのひとつとなりました。粘土を触っていると無心になって心が浄化されるような気がします。
また、野の草花たちは、都内では見かける機会も減り、今や雑草といわれてきた品種も絶滅が進んでいます。タンポポやつくし、すみれやぺんぺん草。
自然の草花は、私たちをどこか、懐かしい気持ちにしてくれ、幼いころの思い出と共にいつもそこにあります。小さな自然を大切に思い、どんな時も心豊かに作品作りをしていきたいと思います。

10周年という節目にこれからは海外なども意識し、私たちの野の花・野草アートの存在をより、多くの方に知ってほしい。と願っています。

                                                                                                              小玉智子



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