軟水ボディと硬水ボディ


「軟水と硬水、どちらで断食なさいますか?」

受付の女はそう言った。

「硬水でお願いします」

少し緊張しながら、ぼくはそう告げた。

ここは、身も心も本気で変わりたい人のための断食ジム「アイザップ」。これから28日間ものあいだ、水しか飲めない日々がはじまることになる。

28日という期間は、性別・年齢・身長・体重・体脂肪率、これら5つの数字から基礎代謝と脂肪重量を割り出して設定され、ひとりひとりに最適な期間、最適なサポートのもと進めていける。

しかし、この施設が人気なのはそれだけではない。「軟水」と「硬水」を選んで断食できるのだ。

人間のカラダは約60兆個の細胞でできているが、これらの細胞は常に生まれ変わり続けており、約6年で完全に新しい細胞と入れ替わる。いわば、6年前の自分と今の自分は別人なのだ。

とりわけ血液だけで言えば、4ヶ月で全てが入れ替わる。断食をしながら、体内の水分を入れ替えることで、軟水だけを飲んでいれば軟水ボディに、硬水だけを飲んでいれば硬水ボディのできあがり、というわけだ。

軟水を飲むとやわらかく、硬水を飲むとかたい口当たりがするものだが、人間のカラダとは素直なもので、カタブツと言われてきた上司が軟水ボディになると、柔軟で人当たりのいい人間に。ナヨナヨして男らしくないと言われてきた青年が、硬水ボディになると、ズバッと決断できる男に生まれ変わるというのだ。

「血管にコミットする」

テレビCMではそんな売り文句が連呼され、有名タレントたちがそのビフォーアフターを惜しげもなく披露している。にわかには信じられなかったが、何度もCMを目にするうちに憧れが湧いてきた。普段から優柔不断で、食べ物の注文もロクに決められない自分に嫌気がさしていたところもあって、勇気を出して(それでも半年は迷ったが)、アイザップに申し込んだのである。

「では、ご案内させていただきます」

受付の女に案内されて館内を歩いていく。

「こちらが図書館になります。ご自由にご利用ください。こちらがドリンクバーになります。といっても、硬水しかでませんが。こちらが…」

なるほど、断食ジムとは言ってもマンガ喫茶のようなものである。28日間ならギリギリなんとか過ごせそうだ。

「こちらがお客様のお部屋となります」

女が指し示した部屋の中には最新のパソコンが置いてあり、寝転がるには充分なスペースもある。ただひとつ、気になったのは赤いボタン。

「途中でリタイアされる場合や、体調が優れない場合は、遠慮なく押してくださいね。」

そう言い残して女は去っていった。

ジムとはいえ、毎朝の健康診断と、1日2ℓの硬水を飲むこと以外に決まりごとはない。最初の1週間こそ辛かったものの、人間とは案外食べなくても生きていけるものである、と言いたいところだが、おなかが空いて死にそうだった。あれだけ迷って申し込んだのにリタイアするわけにはいかない、でも限界…。さらに2日は悩んだものの、結局、10日も断食できずに脱出ボタンを押してしまった。

結局、ぼくの優柔不断は治らないんだな……。自己嫌悪に陥りながら、駅前のマクドナルドに吸い寄せられていく。

「ご注文はいかがなさいますか?」

しかし、ぼくに迷いはなかった。

「あるもの全部ください」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?