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衝撃が強すぎて記憶が曖昧になった話

気がつくと風と香りに趣を感じる季節になりました。

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すっかり秋ですねぇ・・・。秋といえば「〇〇の秋」ってよく聞きますよね。

食欲の秋・学問の秋・芸術の秋・運動の秋・etc…

暑い夏が過ぎ去って、快適な生活の中で感性が高まる…とも言われるのが秋の特徴。読書の秋という言葉もよく使いますよね。

ちなみに僕は小さい頃から活字が大嫌いでした。活字ばかりの本はとにかく眠くなる。漫画大好き。漫画LOVE。でも手塚治虫とか読んでいたから、勉強にはなっていたはず(言い訳)。

その僕がこうやってnoteを書いていることは奇跡に近いかもしれません。

大人になって、少し活字の大切さに気づいたのかも。今回はそんな僕が経験した、とある読書会での出来事を綴ります。



【とにかく明るいカイくん】

こう見えて小学生のちびっ子達とは相性が良いワタクシ。20代の頃は小2小3くらいのちびっ子達相手によくイベントをやっていました。

ある時は理科実験の博士役をやったり(白衣が不思議な似合い方しますw)。

ある時は親子セミナーで将来のお仕事を一緒に考えたり。

そしてある年の秋の日に「秋の親子読書会」なるイベントを開催したのです。が、先に書いておくと僕はこの読書会の記憶がほとんどありません。断片的にしか覚えていないのです。ある少年の一言によって。

確か、この時の読書会で使った本は「虹の谷のスーパーマーケット」なる本であったと記憶しています。

この読書会に、小学3年生のカイくん(仮称)がお母様と共に参加を申し込んでくれたのです。カイくんは理科実験にも何度か足を運んでくれており、僕もよく知っているちびっ子でした。

とにかく明るい!そして元気✨

あまりに元気すぎて、どうやら学校ではなかなかの問題児扱いされていたようでした。お母様はとってもしっかり…というか、ビシッとされてらっしゃる方であっただけに意外というか、なるほど…というか。

カイくんはあまり学校が好きではありませんでした。学校を窮屈に感じることが多かったみたい。そのカイくんはこうやって自由に学べて発言できる、僕たちとの時間を楽しみにしてくれていたようでした。

そして彼が参加した、この読書会で事件は起きました。



【その衝撃は突然に・・・】

断片的な記憶ですが、確かこの回の読書会は6〜7家庭が集まってくださったと記憶しています。そして基本的にはお母様は後ろで見てもらっており、適宜自由にちびっ子達の隣に座れるようにしていたはず。なぜかというと、僕が合間合間にちょこちょこちびっ子達に向けて質問をしていたから。

①まずソガ氏が音読

②続けてちびっ子達が音読(丸読みしたり、ランダムに指名したり)

③途中途中でストップして質問タイム

④質問の答えはちびっ子達だけも良し、親子でやるも良し

確かこんな流れでやっていました。参加していたカイくんも、読書ではあるものの楽しそうに参加してくれています。理科実験と違うのでお行儀良くできるかをお母様は心配していましたが、始まった感じだと順調そう。お母様も後ろでニコニコしながら読書会を暖かく見守ってくれていました。

この本の中で、ワゴン車だか何かに乗って移動するシーンが出てくるんですよ。

その辺りを読み終わった後、ちびっ子達に呼びかけます。

ソガ氏「はーい、じゃあここで一旦ストップ!」

ちびっ子「キタ!質問だ!」

ソガ氏「その通り!じゃあ行くよー・・・」

とても微笑ましい、穏やかな時間であったはず。僕はちびっ子達に質問を投げかけました。

ソガ氏「さて問題。止まったワゴン車の中で何をやっていたでしょう?」

確かこんな質問をしたはずです。その質問が終わると同時に、ちびっ子達が勢いよく本の中から答えの箇所を探し出そうと読み直します。ここで突然、カイくんが勢いよく立ち上がりました。

ソガ氏「お!カイくんどうしたの?探せた?」

カイくん「オレ、探さなくてももう分かったよ。分かった!」

ソガ氏「おぉ!それはすごい!覚えていたの?じゃあカイくん、答えは!?」

カイくん「・・・H」

ソガ氏「・・・?・・・え?」

カイくん「決まってんじゃん!エッチしてたんだよ!エッチ!」

そのあとの記憶はほとんどありません。この場をどう切り抜けたかも、読書会がどのように終わったのかも。

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【多様性って何味なんだろう?】

最近ダイバーシティやら多様性やらインクルーシブやらいろんな言葉が聞かれるようになりました。大人も子供も。学校も社会も。

「みんな違って、みんな良い」

こんな耳障りの良いフレーズも。言わんとすることはわかりますし、僕も多様性が受け入れられる世界は歓迎です。何しろ僕がちびっ子の頃は普通でないと、先生の言うことが聞けないと大変な目にあう時代でしたから。

多様性溢れるコミュニティ形成を受容し互いに育み合うためにも、例えば学校では「1クラス40人学級は多すぎだ!」という議論があったりします。可能な限り20名で、無理ならばせめて30人で。もしくは複数の先生で指導に当たろう!(チームティーチングとか言われます)などなど。

確かに40人は多すぎる。ただ、僕に言わせれば20人でも多すぎです。単なる科目指導やテクニック伝授でも20人は多すぎる。ましてやちびっ子達と向き合い、性格や人格も受け入れつつ、微妙な変化も見逃さずに対話していくならば。

僕はよく「給食班にお誕生席二つ分付けるくらい」という表現をしていました。つまり6名程度。多くても10人くらいまで。その人数だから、深いところまで向き合えるし、バイオリズムまで踏まえた対話が果たせます。

そのぐらいの距離で話すから見えてくる個性のなんと豊かなこと!そしてその個性は、年齢や性別ではおよそ括ることのできないものばかりです。

そんな状態を理解し、受け入れて、めちゃくちゃな感情を抱えながら向き合って初めて多様であることがわかるし、多様性の価値を吟味できると思います。

「みんな違って、みんな良い」のですが、ここでの「良い」は現実的にはそこまでポジティブな意味合いではないかもしれません。

「あいつのこと嫌いだ・・・」「彼のいう価値が理解できないなぁ」

違っていることで、そんな感情を持つかもしれません。心のざらつきが、どうしても残ってしまう。またある時は、あまりにも違いが大きすぎてショックを受けてしまう。島国で、同質性も高い日本ならばより一層そういうことが未来起こりそう。

でもそれらも「ほどほどに」受け入れたり、「ほどほどに」ショックを受けて、最終的には、

「まあ、ああいうのもアリといえばアリだよね。俺は無しだけど」

くらいに収まる、収めることで初めてDiversityの高い社会が実現するのでは?

じっくり向き合い対話することで見えてくる多様性
ほどほどの理解でもどこかで繋がって尊重しあえるDiversity

本格的なグローバリゼーションが進む中で、これらのことを今一度自分たちの経験から振り返ってみても良いのかなぁ…と思います。

「これまで」の中にも既に存在していた多様性を見直して

「これから」の中で新たに育まれるDiversityの価値を考える


…多分僕が若かりし頃、読書会をしていた頃は、カイくんが繰り出した小3にしては出現率の極めて低い言葉に動揺し、彼の個性をうまく受け入れられなかったのでしょう。「普通の小3は、そんな言葉を発しない」とでも思っていたかのように。

そしてその言葉のインパクト強すぎて、当時の僕は撃ち抜かれてしまったのです。今ならもっと冷静に良い言葉をかけてあげられるかなぁ…。

多分、ですが。

その読書会以降のスタッフの発言や、後日のお母様方のリアクションから察するに、ほぼ記憶のない僕の対応はまずまず上手かったみたいです。

良かった良かった・・・?

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