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4月に読み終えた本

4月はあまり読み終えてない。理由ははっきりしていて、春アニメをチェックしたり、ゲームをやったりしていて時間がなかった。
アニメは四半期に一度のいつものやつなので、おもしろいと思っているのを列挙します。

- ゴジラ S.P <シンギュラポイント>
- ゾンビランドサガ リベンジ
- スーパーカブ
- NOMAD メガロボクス2
- シャドーハウス
- Vivy -Fluorite Eye's Song-

読書記事的には、円城塔がシリーズ構成・SF考証・脚本を担当しているゴジラ S.Pは外せない。
ゲームは前回の記事で書いたように『NieR Replicant ver.1.22474487139...』始めているのと、会社の同僚とVCつなぎながらFORTNITEをするというのが最近のブーム?になっているので、けっこう時間が吸い取られている。
とはいえまったく本を読む時間がないわけではなく、どちらかというといろんな本をつまみ食い的に読んでいることが多かった。今日はこれで、みたいな感じで読んでるといつまで経っても読み終わらずに並列実行がどんどん増えていくのだが、それはそれで楽しいというのもある。
今回の見出し画像は東京都現代美術館「マーク・マンダース —マーク・マンダースの不在」展で展示されていた彫刻。panpanya作品のような趣がある。

吉川浩満『理不尽な進化 増補新版――遺伝子と運の間』(ちくま文庫)

いろんなところでおもしろい本だという評判を聞いていて(文庫版の帯の錚々たるメンツ!)、気になっていたのだが、なんかそろそろ文庫で出ないかなーとセコいことを思っていたらはたして文庫化されたのでさっそく買って読んだ。とてもおもしろい。
これは進化論の本である。といっても最初は進化のはてに生き残ったものたちではなく、絶滅していった種についての話がされる。歴史上存在していた種は99.9%が絶滅していて、その痕跡が残っている種もごく一部である(たとえば恐竜はその代表である)。絶滅したからにはその種が「弱かった」ので「淘汰」されたのだというふうに考えがちだが、実際のところは、繁栄した種もなにかがきっかけで絶滅するということがありうる。恐竜は大いに繁栄したが、隕石の落下による環境の変化についていくことができずに絶滅した。隕石の落下という「運」の悪さによって恐竜は絶滅したのであって、「弱い」から絶滅したのではない。反対に、生き残った哺乳類も、「強い」から生き残ったのではなくて、「運」が良かったわけだ。
「結果的に生き残ること」、これがすなわち「適者生存」という言葉の意味なわけだが、我々がふだん使い、イメージする「進化論」ではやはり「強者が生き残り、弱者が滅びる」というニュアンスが強く意識されている。この進化論をめぐる通俗的理解と専門的な理解ではそのような懸隔がある。前置きが長くなったが、著者が探るのはこの差がどのようにして生まれるのかということである。この専門的な知識を背景にした通俗的な言葉の使用は、鶴見俊輔を引いて言葉の「お守り」的使用と呼ばれる。「自然淘汰」や「適者生存」といった言葉も、科学的な背景があるからこそ、生物の進化以外の事象に当てはめてしまえるということである。
さらに、進化論をめぐる専門家の論争が検討される。スティーブン・ジェイ・グールドらとリチャード・ドーキンスらの論争は、後者に軍配が上がる。この「適応主義」めぐる論争において、グールドは、この方法論における「歴史性」の欠如(消去)の問題を指摘する。いかに「適応主義」がリサーチプログラムとして優れていたとしても、歴史性、つまり絶滅していった種のことについて研究することなしでは、「偶然」の果てである現在の種の生存・進化が「必然」のものとして見えてしまう。この辺が本書の肝といったところで、科学の「説明/方法」とそれの及ばない領域での「理解/真理」という対立がガダマーなどによって呼び出される。グールドは科学的方法に歴史的理解を欠かしてはならないという主張をし、しかしそれはあくまで科学の方法としての論争だったために敗北した。
この対立は、「理解/真理が重要なのだ!」ということではなく、その往還が重要ということなのだが、我々はとかく生活感情(こちらは理解の側)から見てしまいがちである。自分も、本を読む際は、「理解/真理」をとりあげる人文学や芸術という分野を読むので、納得感がある。吉川がすごいのは、註や参考文献を見ればわかるように、(あえてざっくり言うと)文系も理系もゴリゴリに読んでこの本を書いていることがわかるし、当然文章からも滲み出ている。専門的なこともかなりわかりやすく書かれていて、それなりに厚いのだが、スラスラ読めてしまうのもすごい。無理矢理結びつけるならば、これも説明と理解の往還ゆえだろうと思う。絶滅という現象から、進化論の通俗的理解と専門的な知識の齟齬、それをグールドの主張とその敗北の理由へと結びつけて論じる手つきが見事である。評判に違わぬ名著であった。
……まとめるの途中で放棄してしまった。読んでください。


『本を贈る』(三輪舎)

なぜだか本やWebの記事を読んでると誤植を発見することが多くて、とくに仕事に関する文章などで発見すると同僚に校正だと言われてしまうのだが、校正なんて恐れ多い、大変な仕事じゃいと思ってそういえば実際のところどうなんだろうと思っていたところ、柏書房のnoteで『カンマの女王』という雑誌ニューヨーカーの校正係の人の本が出ることを知り買ってみた。この本はまだ読み途中なのだが、noteにも転載されている訳者あとがきで牟田都子さんという校正者のエッセイが云々という話が出てきて、それをググったらこの『本を贈る』という本が出てきたので、買ってみた。
本を作ってから読者に届けるまでの行程にかかわる人たちがそれぞれエッセイを書いている。編集者、装丁家、校正者、印刷、製本、取次、営業、書店員、本屋、そして批評家(書き手あるいは読み手ということだろう)というラインナップ。それぞれがそれぞれの視点で本と関わっているところが書かれていておもしろい。


きっかけになった校正者の牟田さんの文章を読むと、よく言われているように「校正」というのが単なる間違い探しではなく、事実関係や意味の確認、表現に対する指摘まで、非常に多くのことを著者に提案する仕事だということが書いてあり、驚く。OKとなるかNGとなるかは別として、編集者とは違った観点から「編集」に参加しているとも言える。『カンマの女王』でも辞書の版などに細かく言及する記述があったけれども、そういう知の集積とともに仕事をしていくのは、非常に尊敬ができる。
他の職種の書き手に関しても、本ってそんな感じで自分のところにやってくるのかということがそれぞれで興味深かった。奥付を見ると印刷や製本に関わる人が、会社ではなく個人で書かれており、こんなにいろんな仕事があるんだなあと関心した。装丁も良くて、全体として素敵な本だなあという気持ちで読み終えた。