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テクノロジーは僕らを変えたか???

ミニマリストのタグをつけたからか知らないが、note界隈ではかなり有名そうなミニマリストの人からフォローが来ていた。そして今日見ると、フォローが外れていた。まあ、そういう戦略なんだろうけど、やってることがこすいよね、しかも#ミニマリストにいちいち反応してFF戦略やってるとしたらミニマルじゃない。あなたはミニマリストを名乗らないほうがいいのでは?と思った。当の本人がそういう思考でなかったとしても、そう見える。

ということで記事をひとつ書こうかと思ったんですが、どうでもいい話なので本題に移りたいなと思います。

今日は「いろんな人が世界にはいて、その人達と知り合えたり、見ることができるようになったんだけど、昔とそこまで変わってはいないんじゃないか」というお話。

最近「あいのり」という番組をネットフリックスで視聴している。昔のあいのりもやってはいるのだが、見ているのは専らセカンドジャーニーのほう。昔は昔で時代が感じられていいのだけど、今の僕らと感覚が違うところも多くてそこまで感情移入できないなという印象。

かる~く説明すると、旅を通じて男女計7人が恋愛をするという番組である。そこでは出自の異なる様々な人間が出演しており、こんな経歴の人がいるのか!とかこんな性格の人もいるんだなあという発見が多々あり、面白い。人はほかの人の反応が、本能的に気になる生き物である。社会的動物である以上、多かれ少なかれ他人と関わらざるを得ないという性質も相まって反応が気になってしまう。人間観察バラエティが流行ったのもそういう部分があるのだろう。テラスハウスやバチェラーなんかが流行ってるのも同じだと思う。(バチェラーは絶賛炎上中のようですね。僕も観ましたが、総じてぼんぼんの息子やなーという印象です。)

今回のあいのりで衝撃だったのは、なんといっても「でっぱりん」自称中の下とか、中の上とかいろいろ言っているが問題はそこではない。性格とか気質とかが大問題である。とにかくこの人は酒ぐせが悪く、いろいろな人に噛み付きまくる。自分が思ったことは相手に言わないと気が済まないという、なんとも残念な人であり、自分の気持ちを自分で消化できない人。そのためあいのりの旅でもいろんな人に迷惑をかけまくっていて、早く強制送還しろよとマジで思うくらい不快である。

テラスハウスにもやべーなーと思う人は結構いたりする。今ちょうどやっているやつでも「西野入くん」はかなり危ない。あのまま社会に出すには無知すぎる。it'sの意味もPleaseの意味も知らない。まあ知らなくてもいいんだけど、クックパッドを見て料理が出来ないし、スパイダーマンになろうとしてるし、掃除は出来ないし、でとにかく生活力がない。とはいえ、根はいいやつだろうから、でっぱりんみたいに周りに迷惑をかけることもないし、そいう言う意味では安心して観ていられる。

いまのバチェラーでも同じことが言える。とにかく、そういう人間観察系の番組に言えるのは、いろんな人がいるんだな~というのがよくわかるということだ。ネットが発達してくれたおかげで、SNSには有象無象がたくさんいるし、その人の発言ばかりか、行動までも配信してくれる。昔と比べてめちゃくちゃ色んな人と直接にも間接にも触れる機会が増えたなあと思うのである。

一方で、じゃあその有象無象が見えることになったからと言って、人間が変わったかというとそこまで変わっていないんじゃないかと僕は思う。他人は他人であり、色んな人を見て変われるとしたら「寛容になれる」ことくらいなんじゃないだろうか。実際にでっぱりんなんかを見ていると、性格でベルカーブを描いたとすれば上位下位5%に相当する特異的な人達がより身近に感じられるし、収入・容姿・職業など様々な特異点を見られるようになった。だからといって自分そのものはそれを観ても観なくてもそこまで変わらないんじゃないか。

今月のテーマとして読書の課題にしていた「生まれか育ちか」もある程度は生まれで説明できる部分があるという結論でまとまってきている。行動遺伝学という分野でも、行動にはあまねく遺伝の影響が見て取れるという。そして育ちとしても共有環境の影響は思ったよりも少ない。むしろ、非共有環境の影響が大きいという結論に至る。(ここらへんはまた説明するし、よく知りたい人は安藤寿康という方の著作を読んでいただきたい)

人は環境に適応する形で遺伝子を発現させる、才能が開花するという構図らしいが、映像はその環境としてはよわよわしい。体感としてリアルに感じたことでなければ、人の記憶には残りづらい。ネット上で色んな人の意見を聞いたり見たりしたところで、リアルの関係を変えているか?と言われればそうじゃないよねという人のほうが圧倒的大多数だろう。(これもベルカーブを描けばそうなるんだから)そういう意味でネットは結局僕たちの生活を変えてはいない。僕たちはテクノロジーに圧倒され過ぎて、やはり適切にそれを使いこなせていないんじゃないか、僕はそう思う。

平安時代の一年分の情報量が、現代の1日分に相当すると言われるほど、情報があふれるこの時代。でも、原始時代にウホウホ言っていた時代から僕らはそこまで進化していない。テクノロジーの恩恵を受動的に享受しているだけではリアルの環境は変わらないから、積極的に周囲の環境を変える方向にテクノロジーを利用したほうが良い。

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