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うつ病と、パートナーと。

結論から言うと、私と上田映劇の長岡俊平支配人はパートナーで、そして、もぎりのやぎちゃんことやぎかなこはうつ病ですという話。

極力話さないという選択

こんにちは。上田映劇のボランティアスタッフ・もぎりのやぎちゃんです。もはや冒頭の一行で終わる話をつらつらと書き綴ります。

最近、ありがたいことに上田映劇について書く機会や、取材をしていただくことが増えました。でも、「なぜ(茨城出身の私が)上田に来たのか」について聞かれると、毎回口をもごもごとさせていました。なぜ上田に来たか。端的に言えば「長岡とパートナーだったから」なのですが、うつ病であることも大きく影響しています。

しかし、長岡とパートナーであることを話せば、芋づる式にあれやこれや聞かれるだろう。一体どこまで話せばいいのか。私がうつ病であることも話さなければならないのか。うつ病について話すか否か。悩みに悩みました。私は話すのが上手ではありません。話し下手というよりも、話しすぎるという点でいつも後悔しています。

ですので、最初から「極力話さないようにする」という選択を続けてきました。パートナーやうつ病について公言しないことで、自分の心を守ってきたのです。しかし、うつ病が快方に向かいはじめたことにより、その心境も大きく変わりました。そしてある日「あ、…もういいかな…」と急に肩の力が抜けたのです。

そんな心境の変化を経て、今まであまり詳しくお話ししてこなかった上田に来た経緯や来てからのこと、当時と今の心境を綴ろうと思います。長い長いお話です。基本的には自分の備忘録として書いたのですが、もしご一読いただけたら幸いです。

上田に来るまでの話

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私と長岡は大学で知り合い(同級生です)、縁あってパートナーになりました。気が付けばもう7年も一緒にいます。長岡が「(大学院卒業後は)地元に戻って古い映画館で働く」と言ったのは、2016年の始め頃。当時私たちは東京の、別々の大学院の修士課程に籍を置いておりました。その頃はまだ具体的な話はあまりなく、長岡からその話を聞いた時も「まあ、前々から老後は地元・上田に帰りたいって言ってたしな…」と呑気なことを思う程度で、一緒に上田へ行くかどうかは微塵も考えませんでした。

少し時間を遡って、2015年の5月のこと。私は母を乳がんで亡くしました。56歳でした。長い闘病生活、緩和ケア病棟に移ったあたりから覚悟はしていました。しかし、母が亡くなって半年経った頃から私は少しずつ心身共に調子を崩し始めました。そして2016年3月、今度は祖父が他界。これをきっかけに私は家族と衝突し、完全に心と体が壊れてしまいました。

精神的に不安定な日が続きました。涙が止まらず、フラッシュバックや、時にはパニックで過呼吸になることも。ベッドから起き上がれない日や、夜が怖くて朝日を見てから眠りにつくのが日常になりました。大好きだったはずの本が読めなくなり、今まで難なくできていたはずの家事も一切できなくなりました。そしてなにより、死を意識する時間が増えました。診断名は、うつ病でした。

もはや研究どころではないと判断した私は大学院を休学。2016年9月、大学院修士課程2年のことです。正直なところ、この辺りの記憶はほとんど抜けていてあまり覚えていません。それからしばらくして、2017年の2月のこと。長岡は無事、大学院の卒業が決まり、卒業後の進路は上田映劇に就職。対する私はどうしたものかと悩んでおりました。

その時の私にあった選択肢は3つ。
①地元茨城に帰る
②ひとり、東京に残って大学院に復学
③長岡と一緒に上田に行く
正直なところ、この時の私はうつ病によりひとりで生活することがままならず、長岡の助けを借りてなんとか生活できるという状態でした。ですので、②は無理だと判断。地元に帰るか、上田に行くか。しかし、うつ病の大きな原因の一つが家族でしたので①も無理。というわけで、消去法的に上田に行くことを決めました。この“消去法的“というのが、上田に来た経緯をあまり人に話せずにいた理由のひとつでもあります(なんとなく申し訳ない気持ちに…)。積極的に上田に行くぞ!というよりも、生きるために逃げる。これが私が上田に来た経緯です。

上田に来てみて

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そんなこんなで2017年の3月、私は上田に転がり込んできました。上田に来た当初はベッドから起き上がれない日も多くありました。パニックもフラッシュバックも頻繁にあり、何もできない日が続きました。また薬の影響と過食で増えゆく体重を止められず、自己嫌悪の日々を過ごしていました。

3年が経ち、今は決まった時間に寝起きし、昼間はしっかりと活動、夜はぐっすりと眠っています。気候、気温、気圧の変化から精神的に不安定になることもありますが、フラッシュバックはほぼ無くなりました。本は読めたり読めなかったりしています。家事はまだできないことも多いですが、少しずつチャレンジしています。辛い日もしんどい日も多いですが、それでも随分と良くなりました。なによりも死を意識する時間が圧倒的に減り、生きるのが楽になりました。

上田映劇でお手伝いをはじめて

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うつ病が快方に向かいはじめた理由は様々ですが、その一つに上田映劇があるのは確かです。上田に来てから10ヶ月が経った頃でしょうか…。一度就職を試みたのですが、職場環境が芳しくなくすぐに退職。さらにうつ病も悪化させてしまいました。

そんな折、長岡から「映劇でお手伝いしてみない?」と言われました。私は両親が自営業で、四六時中一緒にいることの大変さを目の当たりにしており、長岡がいる映劇を手伝うことに対してすこし抵抗感がありました。でも、ずっと家に閉じこもるよりも、少しでも人と接する方が社会復帰への近道になるのではと思い、お手伝いをはじめました。長岡もそう考えて声をかけてくれたのでしょう。

映劇でお手伝いをするうちに「もぎりのやぎちゃん」というあだ名がつきました。その名前で発信したり、たくさんの人と出会ったり、お話ししたり。人との交流を通して、少しずつ壊れた心が作り直されていくのを感じました。

上田に来た経緯、映劇でお手伝いをはじめた経緯はあまりポジティブなものではありません。それでも、上田に行くことを、映劇を手伝うことを、選んできたことは間違いじゃなかった。いろんなことをひっくるめて、私は上田に来てよかったなと思っています。

とはいえ、実はまだ無職。うつ病で低下した体力や不調という壁は思った以上に、就職への道に大きく立ちはだかっています。「映劇で雇ってもらえないの?」としばしば聞かれますが、残念ながらそれは諸事情により厳しそうです。ですので、別の仕事に就きながら、もぎりのやぎちゃんを続けたいと考えています。まずは体力をつけること、そして不調との上手な付き合い方を見つけることが当面の課題です。頑張りすぎない程度に、頑張ります。

あえて話してみるという選択

以上が、私の上田に来た経緯などについての備忘録です。今までは、極力話さないことで自分の心を守ってきました。でも今度は、あえて話すことで自分の心を前に進ませてみたいと思います。もしかしたら進まないかもしれません。何よりもまずは書いてみること、それが大切だと私は思いました。

最後に、ずっと支え続けてくれている長岡と、もぎりのやぎちゃんを通して出会った方々、そしてこの備忘録を最後まで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。

(この記事を書くにあたり、長岡にはパートナーであることを公にする旨の許可は取っております)


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