具体性と抽象性の間

いきなり起承転結の転に走るようですが、ちょっと思いついたことを。

少し前のことですが、手持ち無沙汰だったので、ニュースを見た後、チャンネルをあちこち変えていた時のこと(でも、面白いものがないね)。

昭和から平成の時代に流行った歌謡曲の特集をやっていた。僕は歌謡曲はほとんど聴かないのですが、この時はなぜかちょっと心引かれてついしばらく見入ってしまった。たぶん、懐かしい(というか、やや感傷的な)気分になったのです。

歌は世につれ、世は歌につれ。そういうことが確かにあるのかも。時代の気分を表わす歌があっても不思議ではありません。でも、僕の場合、その流行った年号を見てただ懐かしいと感じ入るというだけなのだよ。僕自身の具体的な経験と結びついて思い出すことが、ない(ちょっと寂しい)。

年号という極度に抽象化されたものを介して、当時を懐かしむという案配(ただ抽象的に。つまりませんね)。

その後しばらくして、夕刊のファッション特集を眺めていたら、ふいにファッションも建築も同じかもという気がした。すなわち、服であれ住宅であれ既存のイメージに忠実過ぎると既にあるものから逃れることができず、抽象的な思考が行き過ぎると他者に受け入れられにくくなる。いずれも新しい試みを内包したものが作り続けられるわけですが、これらは具体性と抽象性の2つともが含まれているということではあるまいか(その比率はそれぞれに異なるとしても)。ただの思いつきに過ぎません……。

たとえば、スコッチウィスキーの名産地の1つアイラ島の民家*ですが、軒の出のほとんどない黒の切り妻の屋根と白い壁、そして小さく穿たれたいくつかの開口部、というこれ以上ないほどに切り詰められた単純な形態。これなどは抽象と具体が絶妙なバランスとなった例のような気がするのです。世界中の誰でも家だということが分かる普遍性(すなわち、抽象性)とともに、その場所にとけ込んでどこにもない風景をつくっている(すなわち、地域性という具体性)。しかもきわめて美しい。

しかし、建築家が関与することはまずなかったはずだし、抽象化しようという意志が働いたわけでもないのに違いない。むしろ、当時のその地域の経済状況や気候風土、そしてその当時の技術の反映ということだろう、と思います。

とすれば、期せずして抽象にたどり着いたのか、いや具体性そのものだと言うべきなのか。それとも、両極端は一致する、と知るべきなのだろうか。

*以前、別のところで取り上げた時の写真が見つからないのですが、とくに以下のやや下あたり3つめの写真(ちょっと小さいですが)。
https://www.islayinfo.com/port_charlotte.html

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