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名もなき時間を歩く

 日記を書き続けている。「これを書いて何になるのか」という疑念はとうに尽き果てた。未整理な日々の記録がクラウドメモに積もっていく。考えてみて欲しい。二〇一〇年にスタートした『一〇年日記』のうち、二〇二〇年に無事たどり着いたものはいったい何冊だろうかと。日記の持ち主は、地震にもウィルスにも負けず、元気に三日坊主している。そう信じよう。

 オンライン会議中、仕事相手のこんな話が気になった。「緊急事態宣言が出された頃、電車内から外を見たら、あちこちのベランダに人が立っているのが見えて。大人も子どもも、電車が走るのをぼんやり眺めてるんです」。

 途方に暮れたようにベランダに立つ人たちの姿を想像した。休校、在宅勤務、ステイホーム……降り注ぐ変化の中、彼らはマンションの各ベランダに出て、春の風を感じようと試みたのか。隣人同士、互いに交わることもなく、自分が乗るはずだった電車を見送りながら。

「あの頃は外出もできなくて、行き場が無くて、皆なんとなくベランダに出てしまったんでしょうね」。

 その姿は、五年前の私自身と重なる。当時、専業になったばかりの私は、自宅での執筆作業に勤しみ、二十三歳にして隠遁生活を送っていた。夕暮れどき、外の空気が吸いたくなる時間、マンションの外階段を上るのが密かな楽しみだった。最上階の七階まで上ると、夕焼けを一望でき、最寄り駅のプラットホームを見下ろせるのだ。

 駅はまるで船着き場だった。岸辺に吸い寄せられた電車から、降りる人、乗り込む人が一斉に交差して入れ替わる。鳴り響くメロディと相俟って、それらは一つの規則的運動に見えた。ダンス、細胞分裂、からくり時計の人形劇――。映画や舞台を観るように、私はその光景の虜になった。空は刻々と色づくホリゾントライト。果てしないレールの輝き。車窓から漏れる光は、線路沿いのアパートの壁を照らす。走り出すにつれ、窓明かりがフィルムのコマのように連なり、ビルの壁に映写される。そんな町のいびつなスクリーンを私は愛した。どこかの家から漂う、キャベツを煮るお醤油の匂いさえ愛おしかった。

 だからわかる、人がベランダに立つのは、人恋しいときだ。自分が実体なき透明人間か幽霊のように思えて、せめて他者の気配を感じたいときだと。

 会議や飲み会のオンライン化が進んだ結果、目的地までの移動も、寄り道もショートカットされるようになった。先日、久々に近所の喫茶店で編集者と会ったときのこと。帰路、好きな雑貨店の前を通り、心惹かれた。だが隣には編集者。さっきまで仕事の話をしていた手前、ここで別れるのは気まずい。「やれやれ。こっちは忙しいのに雑貨ですか……」。編集者の嘆き(勝手な妄想)に配慮して、私は店を素通り。「では失礼します」と笑顔で会釈し、颯爽と角を曲がる。もちろん数分後、猛然と道を引き返した。辺りをキョロキョロ確かめ、なんの役にも立たないガラクタを満喫した。以前はしれっとできた寄り道が、こんなにも恥ずかしいとは。

 飲み会の帰り道、これと似た戸惑いを覚えた。数ヵ月ぶりの外呑みは楽しく、話も尽きてやがてお開きに。しかし最寄り駅まで一緒に歩き出すと、(あれ? この隙間時間、今までどうしてたっけ?)。容赦ない沈黙と冷や汗。焦りでバグった私は、その日初対面だった相手の目も見られず、「ふあー……」と支離滅裂なことを口走る始末。以前は、世間話モードで自然に乗り切っていたのだろうが、オンラインに慣れ切った身体は、途端にぎこちなくなる。

 帰り道としか呼びようのない、あの名前のない時間。目的のない寄り道。「誰かと歩く時間」が実は特別であることに、長い自粛生活を経て気づかされた。

 私はただ引きこもって一人で書いてきたわけじゃない。友人、恋人、読者、仕事相手、かつての同僚、連絡を取らなくなった人、これから出会う人、亡くなった人。一緒に歩いてくれる「誰か」に宛てて、彼らを振り向かせたくて、書いてきた。全ての「仕事」とは、そういうものじゃないか? 人生自体はどこまでも独り歩きで、ときに転ぶ。それでも身を起こすのは、「誰かと歩く」ことの面白さを知っているし、それを諦めたくないからだ。

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*初出:「ケトル」Vol.55 2020年8月発売号
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*追記:無料公開は、このマガジンのことです。連載6年……感慨深い。

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