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自分の"天才"を生きる道④~『バカをつらぬくのだ!バカボンのパパと読む老子・実践編』(本の紹介)

 願望を抱いて、そこに向かって歩いていく。
 あるいは、「今やるべきこと」をやり続けて、あるときふと振り返る。
 どちらの場合も、そこには「道」があることに気づきます。
 私たちはその道を「人生」と呼んでいます。

 どちらの道を歩くにせよ、大切なのはその道の「歩き方」です。
 「つまんないな、いやだな」と思って歩くのか。
 「楽しいな、幸せだな」と思いながら歩くのか。
 あなたはどちらの歩き方がいいですか?

 第四回となるこの文章では、「幸せな道の歩き方」をお伝えします。
 第一回から第三回まで、個性を磨き、自分の天性を発揮しながら幸せに生きるための方法を見てきました。
 なので、この章でお伝えするのは「個性を磨く道」の幸せな歩き方です。
 特に大切なのは、「スタート」の仕方。
 多くの人は、スタートの段階から間違っているために、苦しい道の歩き方をしているのです。

 逆に言えば、スタートが正しければ、地図はほとんど必要ありません。
 自然と、より大きな幸福の方へと導かれるからです。

 それでは、"幸せが増える歩き方"の話をはじめましょう。

*こちらは以下の記事の続きです。


「欲」は悪なのか?

  名誉と身体、どちらに親しみが湧くか。身体と財貨はどちらに価値があるか。得ることと失うことは、どちらが煩いになるか。
 ものに過ぎた執着をすれば、必ずひどく散財することになり、ものを過ぎて貯めこめば、必ず大量に失うことになる。持っているもので満足することを知れば、屈辱を感じることもない。分相応に留まることを知れば、危ういこともない。長く在ることができる。

『バカをつらぬくのだ!バカボンのパパと読む老子・実践編』ドリアン助川 角川SSC新書 2014年 p190 老子『道徳経』第四十四章 一部分の訳

 たくさんの人々からの称賛や、何でも手に入れられるだけのお金、理想の家、仕事、恋人・・・。
 この世界には、私たちが「欲しい」と思う魅力的なものがたくさんあります。
 でも、欲しいと思うものはめったに手に入りません。

 一方で、世の中には成功者という人たちがいて、その人たちは名誉もお金もたくさん持っています。
 ですが、そういったものを手に入れたら必ずしも幸せかというと、そうでもありません。

 いまやSNSがあるので、有名になると外を自由に出歩くこともままなりませんし、お金をたくさん使った高い生活水準に慣れてしまうと、それを維持するためにめちゃめちゃ働かないといけなくなったりします。

 結局、名誉やお金といったものは、手に入らなくても手に入っても苦しみの原因になるのですから、そもそも「欲しい」と思うこと自体をなくせば、そういった不幸から逃れることが出来るようになる。
 これが「足るを知る」ということです。
 『道徳経』で老子が言っているのは、このようなことのように聞こえます。

 ですが・・・本当はどうなんでしょうね?

 というところが、この章のポイントです。

 一般的に、宗教や哲学では「欲」を悪いことのように言っていると思いがちですが、広く世界を見てみると実はそうでもありません。
 仏教発祥の地であるインドの伝統的な知恵「アーユルヴェーダ」では、人生の目標を4つ挙げており、そのうちのひとつは「お金や物質的な豊かさを築いていくこと」となっています。
 また日本の伝統的な宗教である神道も欲を否定しませんし、仏教から派生した密教だって性的なことや現世利益を否定していません。

 もちろん、自分が欲しいものを手に入れるために他人を騙したり傷つけたりするのは言語道断ですので、そのような人間になってしまわないためにも、自分自身の欲と上手に付き合っていく必要はあります。
 老子が言うところの「足るを知る」にも、自分の欲を制御するという意味合いは確かにあると思います。

 でも実際のところ、私たちの心は「何かが欲しい」というメッセージを発してきます。
 一体何で、そのような気持ちが出てくるのでしょうか?
 それは、「欲しい」という気持ちが、私たちの人生にとって「意味あるもの」だからです。それらの願望は、無視されるために出てきているのではありません。願望はどれも、叶えられるために生まれてきました。

 何かが「欲しい」という気持ち、これは人間の心の備わった自然なものです。
 このように、「欲しい」という気持ちつまり「欲」を肯定した立場で「足るを知る」の意味を解釈してみると、少し違った意味が見えてきます。

「足るを知る」ことからはじめよう。でも、その本当の意味は?

足りないことを嘆くよりも、肥大化する欲望のほうを気を付けなさいというのは、至極まっとうはアドバイスであるように思われます。でも、この言葉はもっともっと深い意味を含んでいるのです。それは私たちがどう生きていくべきか、という大問題についてのひとつの明晰な解答です。

『バカをつらぬくのだ!バカボンのパパと読む老子・実践編』ドリアン助川 角川SSC新書 2014年 p192

 上の引用の中に出てくる「この言葉」というのは、もちろん「足るを知る」のことです。

 さっきの章でも見たように、「欲しい」と思うことは人間の心に備わった自然の傾向です。
 そして、自分自身が「何を」欲しいと思うのか。
 欲しいという想いに対してどのように向き合うか。
 こういったことが、その人の生き方に大きな影響を与えます。
 培ってきた能力や性格も個性なら、その人の「欲しいもの」や「欲しいものとどう向き合うか」というのも個性です。

 いきなり人で例えるとちょっと難しいので、まずはわかりやすく、植物で例えてみたいと思います。
 私の家の近くには、梅の木と桜の木があります。
 どちらの木も大好きです。
 2月になると、寒い中で咲く梅の花が待ち遠しくなりますし、4月になると(今は3月下旬になってしまいましたが)満開に咲く桜の木の下を散歩したくなります。

 でも、不思議なんですよね。
 桜が、ちょっと暖かくなってきた春に咲くのはわかるんですよ。
 でも、梅は何であんなに寒いときに咲くんだろうって。
 2月だとたまに雪が降ったりすることもあるので、花びらに雪が積もったりしていることもあります。
 それって、花にとって苦しくないのかなーって。

 でも、毎年見ていて気づきました。
 梅は、寒いのが好きで咲いているんだな、と。

 私は植物学者ではないので、学問的な視点からの説明はできないんですが、梅が冬に咲いているのは事実です。
 で、梅が冬に咲くのは、梅がそう望んでいるからです。
 梅は「寒い時期に花を咲かせたい」と思っている。
 桜は「あたたかくなってきたときに、一瞬だけ咲きたい」と思っている。
 梅や桜に「願望」があると考えてみたときに、この願望の違いが個性になっている、ということがわかったのです。

 自然界は何でもそうです。
 日光が大好きなひまわりのような生き物もいれば、日の光が届かない深海が大好きな魚もいる。
 じゃあ深海魚は地味で不幸なんですかというとそういうわけではなく、彼らには彼らの生き方があって、それで満足しています。
 「おい深海魚!お前ら暗いぞ!少しは明るいところに出てこい!」
 といって無理やり海の浅いところに引っ張ってきても、彼らは自分から日の光の届かないところに戻っていくでしょう。
 彼らにとってはそこが快適で、そこが好きだからです(底だけに)。

 自然界に存在する生き物である私たち人間も、これと同じ。
 私たちは、すべての存在するものの根本である「道(タオ)」によって、その人ならではの能力や性格、願望を与えられています。
 それは否定すべきものではありません。
 むしろ、私たちひとりひとりが、タオから与えられた天性を開花させたときに、本当にすばらしい社会がつくられるでしょう。
 今でも十分おもしろいんですが、こうなったら世界は、もっとおもしろい!

「みんなちがってみんないい」なんです。

 こう考えてみると「足るを知る」とは、

TAOが与えてくれた私たちそれぞれの才能、才覚、生き方をとことん味わいなさい、幸せになりなさい

同著p196

という意味だと、積極的な解釈をすることもできるのです(「TAO」というのは、老子が見つけたあらゆる存在の根本である「道(この場合は「タオ」と読みます)」のことですね)。

足るを知ればいいことだらけ

 実は、「道(タオ)」によって自分自身に与えられた才能や才覚、生き方を自覚し、それを味わい、祝福すると、とってもいいことがあるんです。
 祝福するというのは、感謝したり、褒めたり、喜んだりすることです。

 その「いいこと」を話す前に、ちょっと宇宙的なお話をしたいのですが・・・。

 「人生楽ありゃ苦もあるさ」っていう、『水戸黄門』で有名なあの歌があるじゃないですか。
 実は、これ、真っ赤なウソなんです。

 楽あれば苦あり、苦あれば楽あり、ではありません。
 楽あれば楽あり、苦あれば苦あり、が正解です。

 意外ですか?

 これは言い換えれば、「今のあなたの状態が、雪だるま式に増えていく」ということです。

 この宇宙には「カルマの法則」というものがあります。
 「カルマ(=業)」というと何だかおどろおどろしいような感じもしますが、カルマの意味はただ単に「行為」という意味です。
 なので「カルマの法則」というのは、「あなたが行った行為が、あなたに返ってきますよ」ということです。
 善い行いをしたら善い行いが、悪い行いをしたら悪い行いが返ってきます。

 ただし、「カルマ」という言葉が意味している範囲は、私たちがふつうに思っているよりもっと広いです。
 「行為」というのは例えば、楽しいことが起こって「楽しいなぁ」と思う、ということも含まれます。
 カルマの法則では、それは「思考という行為」なのだと考えます。
 なので、「楽しいなぁ」と思えば、その行為の結果として「楽しいなぁ」と思うことが返ってきます。
 反対に「苦しいなぁ」と思えば、その行為の結果として「苦しいなぁ」と思うことが返ってきます。

 ですから、楽あれば楽あり、苦あれば苦ありなのです(もし「苦」があったあとに、「苦あれば楽ありだから、次は"楽"なことがきっと起こる!」と心の底から思えたのなら、それは"楽"のカルマを生み出していることになります)。

 宇宙にはこのような法則があります。
 私たちは、物理学者が物理の法則を生かして生活を豊かにするように、この法則を活用して自分自身を幸せにしなければなりません。

 それが冒頭の「道(タオ)」によって自分自身に与えられた才能や才覚、生き方を自覚し、それを味わい、祝福するということです。
 「自分自身に与えられた才能や才覚、生き方」というのをもっと簡単に言えば、自分の中に「もともとある個性」です。

 自分に「もともとある個性」を祝福すると、カルマの法則で祝福したくなることが返ってきます。
 そうやって自分自身の特徴を祝福し続けると、それはやがて美しい花になります。
 だから「スタート」が肝心なのです。
 スタートで祝福をすれば、その後も祝福したくなることが起こるので、あとは自動的に導かれていきます。
 これが、人生を幸福に生きる技術です。

 逆に、「足るを知る」ということをせず、自分にはあれがない、これがないと不平不満ばかりを言っていると、もっと不平不満を言いたくなることが起こります。

 こういう人生を歩んでいる人もいると思いますが、宇宙は道理どおりなので、その人には不幸なことが起こります。

 ならば、自分にもともとある個性を祝福しないともったいない!でも・・・。
 
 自分に「個性」なんて呼べるものは、本当にあるんだろうか?

 という疑問が、湧いてくると思います。

「ない」はずのコミュ力が「あった」

 では、「個性」を見つけるにはどうしたらいいのでしょうか?

 これについては時間をかけて自分自身で見つけるしかありません。
 ですが、あなたのヒントのひとつになるように、私自身の人生の歩みを語ってみたいと思います。

 私は兄弟姉妹がいないんです。
 親ともあんまり話したことがありません。
 「何時にご飯食べるの?」とか、事務的なやり取りはするんですけど、あんまり「おしゃべり」というのをしたことがないんです。

 ですから、「雑談」をする能力が育っていなくて、他人とコミュニケーションを取ることに苦手意識を持っていました。
 特に電話をするときなんかは、電話を持つ手にぐっと力が入って、息が止まるほど。
 こういう感じですから、女の子とのおしゃべりもなかなかうまくいかず、それがコンプレックスでした。

 このような経験を重ねた私は、いつしか自分自身に対して、コミュニケーション力が「ない」というレッテルを貼っていたんですね。

 でもやっぱり、社会人になって「雑談が苦手」とか言ってられないじゃないですか。

 それで、自分自身に対する見方を180°変えてみよう、と決意したんです。
 「本当に、自分はコミュニケーション力が"ない"んだろうか?」って。

 その次に「まず、"もともとある"ものから見つめていこう」と考えました。
 そうして自分を見つめてみると、すごい発見をしたんです。
 それは、
 「コミュニケーション力が"ない"わけがない」
 という発見です。

 どういうことかというと、まず私、もともと日本語が話せるんです。
 「人と仲良くなるには、まず共通点を探せ」なんて言いますけど、日本語を話せるというのは、私がコミュニケーションを取る相手との最大にして最強の共通点です。
 いくら日本人と話したいと思っていても、私がスペイン語しか話せなかったら、いかに翻訳アプリが優れているといっても、少々ややこしい。
 でも私はネイティブと同じレベルで日本語を話せるのですから(日本人なので当然なんですが)、これは相当な強みです。

 それにありがたいことに、今まで友達もできたことがあるし、彼女もできたことがあります。
 っていうことは、コミュニケーション力が「ない」はずがないんです。
 私には、コミュニケーション力が「ある」。
 考え方を変えることで、この事実を腹の底から納得しました。すると、だんだん力が湧いてきたんです。

 次に考えたのは、
 「じゃあ、このコミュニケーション力を、もっと魅力あるものにしていこう!」
 ということでした。

 そのためにまた、私自身に「もともとある個性」を探しました。
 私にあるものって何だろう・・・、そうだ、私には本を年間150~180冊読むくらいの「学ぶ力」がある!

 ということで、この「学ぶ力」を生かして、「コミュニケーション力」を伸ばしていったんです。
 カーネギーの『人を動かす』や、永松茂久さんの『人は話し方が9割』などのステキな本を読んで、実践して、ちょっとずつコミュニケーション力を伸ばしていきました。

*『人は話し方が9割』に関して記事を書いていますので、よかったらそちらもどうぞ

 こうしてちょっとずつコミュニケーション力を伸ばしていきまして、やがては会社の営業で成果を出したり、研修講師の仕事もするようになりました。
 このことは、私にとって大きな自信になっています。

 このように私はコミュニケーションに自信を持てるようになったのですが、自信を持ってから、思わぬ副産物が生まれたことに気づきました。

 それは、私自身がコミュニケーションが苦手だったからこそ、「対話の中ですぐに言葉が出てこない人」や「電話でどもっちゃう人」の気持ちがよくわかる、ということです。

 だから、私はそういう人たちから言葉が出てくるのを、あたたかい気持ちで待つことができます。
 むしろ愛しさすら感じて笑顔になるくらいです。
 そのように愛情をこめて待っていれば、その人はやがて本当に伝えたいことを話してくれます。

 これはおそらく、もともとコミュニケーションが苦手だった人にしか持つことのできない強みだと思います。

 「もともとある個性」を祝福して道を歩むと、このようにいいことがたくさんあります。

 だから今は、コミュニケーション力に苦手意識があった過去にも感謝しています。

個性の見つけるヒント

 さらに、私この経験をとおして、「個性の見つけ方」のヒントも得ることが出来ました。

 それは、

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