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たまらなく遠い日々のために

昔暮らしていたアパートの換気扇は、スイッチを入れるとしばらくファンの羽が通風口の壁に擦れて嫌な音を立てた。
キン、キン、キン、ヒィン、キィン、ヒィン、キィン…って感じに。
その時の僕は、その音自体より、その音が壁伝いに隣の部屋に住む、僕と同じ大学に通う学科違いの知り合いのカンに触るのではないかと、そちらの方を気にしていた。
むしろその音は僕にとっては、何か未知の機械が動き出す時のような、少しわくわくする響きを持っていた。SF映画のシーンみたいに……
そんな空想を巡らせていると、狭いアパートのキッチン兼廊下は宇宙船の通路になり、換気扇の奥の暗がりは、銀河の闇の青さを湛えているような気にもなっていた…ような気がする。

そうこうしているうちに日は暮れ。外には本当に銀河の闇が帷を降ろして、街の上に夜が停泊した。
山並みや建物が平坦な黒で塗りつぶされ、その内に錐でついたような燈が灯り出すと、僕はよく散歩に出かけた。
夜によく散歩をした。夜だったら時間はいつでもよかった。歩きながら思考は歩幅のみぎ、ひだりに揺られて船酔いし、考えたいことや、考えたくないことを右往左往に思案し出す。
生きづらいな、と不意に思った。自分の人生が、まるで自分の人生じゃないような気がする。いやそれは言い訳だ、見知らぬ誰かのために自分の領分を貸さなければいけない事に対する不満を、大袈裟に言い訳しているだけだ。世界は狭い。自分一人がわがままに生きていい場所じゃない。
だけど、だとしたら、僕の本懐はいつになったら。夢は、自由とかは。永遠に誰かに横取りされているんじゃないのか?いつになったら叶うんだ。いつになったら僕は僕になれるんだ?
昼間に降った雨の水たまりが墨汁を垂らしたように真っ黒で、足を入れると底なしにはまり込んでしまいそうな気がして。急いでその場を立ち去る。

夜はいつでも何かを隠す。僕のどうしようもない気持ちや言葉を隠してくれることもあるし、誰かが隠したどうしようもない気持ちや言葉を、僕に向けて突然けしかけてくることもある。
でも僕は夜に歩きに出るのをやめなかった。それは一種の「行」のようにも思えた。自分の、自分による傷を、自分にわざと負わせる。それを繰り返す。
「辛くなきゃ、僕は僕じゃない」そんな言葉を思いついたのは、ちょうどその頃だったと思う。

そんな「行」の何十回目か、あるいは何百回目かの時。
重たい部屋の扉を開けてアパートの廊下に出ると。どこかの部屋で誰かが風呂に入っているのが分かった。廊下にたくさん面した換気扇の排気口のどれかから、入浴剤が溶けた熱いお湯の匂いが漂っていたからだ。
トンネルの中みたいなオレンジのゆったりした廊下の電灯の光の下で立ち止まり、僕はその匂いに包まれた。耳にしたイヤホンからは、KIRINJIの「エイリアンズ」が流れていた。
あれは何だったんだろう。ストップウォッチで測ってみれば2分にも満たないだろうあの時間につけるべき名前を、僕は今でもたまに探してみる。
でも見つからない。今となってはどうするすべもない。
ただ一つ確信できるのは、あの2分もない時間が、僕に何か大きな力を与えたという事だ。その力は僕の手の指を動かして、その当時近所に同じように下宿していた女の子の友達に、「今から会えないか」とLINEで連絡を入れさせたのだった。

月の光が民家の壁や軒を柔らかく洗っていくのを見上げながら、僕と彼女は並んで歩いた。僕は彼女にさっき起きた出来事について、言葉の意味をいくつも重複させ、文の構造をしわくちゃにしながらも、何とかその全てを伝えた。彼女も、大まかな意味合いは理解してくれたようだった。
「そっか。それはいい時間だったんだね。」
そうだ、いい時間。そんな言い方がぴったりだ。でももう少し凝った表現はできないかな。何かアイディアはない?
「分かんないよ。そういうのは君の方が得意でしょ。」
実を言うと、僕はその時その時間につける名前のことを、そこまで深く考えていなかった。ただその時に受けた感動を反復して味わうことに夢中で、名前などは後からでも何とかなるだろうと、たかを括っていたのだ。

「香りは、記憶の中で最も強く覚えていられるものなんだって。」
深夜の散歩を終え、彼女が住むマンションの下まで送りに行った時、不意に彼女にそう言われた。
「だからお風呂の匂いを嗅ぐたびに、思い出すんじゃない?今日のこと。」
そうだといいけど。僕が笑うと彼女も笑った。
「おやすみ、また来週、学校でね。」
そう言うと、彼女はエントランスの鍵を開け、自分が住む部屋の階へと階段を登っていった。
マンションの建物のはるか上の空には、うっすらと青みが差し、船は出航に向けて錨を上げ始めたようだった。

あの時彼女が言ったことは、半分は合っているけど、半分は間違っていた。
あれから何年かして、たまに入浴剤が入ったお湯の、あの時と同じ匂いを嗅ぐことはあるし、KIRINJIならいつでもイヤホンで聴ける。
だけどそれを嗅いで聴いていたあの時の僕は、もういない。夜の真っ黒な水たまりを見つけても、それが底なしだなんてもう思わないし、思えない。
思い出すに必要な要素が3つあるんだから、彼女の言ったことは2/3は合っているけど、1/3は間違っていた。と言い直した方がいいかな。どっちでもいいか。
彼女と会うことも、今じゃめっきり少なくなった。あの時は毎週のように遊んでたのに。でも、そのことを寂しいとは思わない。
あの時間に名前をつけることはもう出来ない。名前じゃなくて、もっと長い言葉、小説じみた文章だったらうまくいくかもしれないと思って、こんなことを書いている。だけど、うまくいってもいかなくても、もうそれもどうでもいい。
過ぎ去り、遠くなった時間だけが、人生にとって美しい輝きを持つ。あれから4年ほど経ってようやくその言葉の意味が分かった。それだけが今の僕の毎日の慰めで、毎日を前に進める強い力なのだ。

あの時夜を歩いたのと同じ歩き方で、僕は僕を歩いている。
たまらなく遠い日々のために、歩いている。

2023.02.25 了

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