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加藤登紀子にアートを学ぶ

加藤登紀子(敬称略)のコラムで、定番を外すとアートになるという旨のことが書かれていました。ぼくは今までそんなことを考えたことがなかったため、なるほどと思った。ヘッダ画像をお借りしています。

加藤登紀子はアートに限ったことじゃなくてファッションにも言えるみたいなことも話した。しかしながら、ぼくは定番もくそもない服装を好むため消去法でこの考え方に従ってしまっているきらいがあるんじゃないだろうかと思えてしまった。

定番に従わないとした理由は、需要を満たせる服装しか必要としていないためです。何らかの作業員みたいな形をイメージしていただければわかりやすいかも知れない。

さらに目下では未知のウイルスが蔓延してたりするので、きったねえ地面と関わらないように妙に引きずったりする衣服を持たないほうが良いというバイアスもかかっている。するとマフラーとか丈の長過ぎるズボンとかを履かなくなる。

で更に自転車に乗って移動するのであれば、より軽微な服装が良いとされる。引きずらないし自転車の各部に引っかからない衣服でなければならない。

そして自転車とは無風状態の天候だろうが常に風と戦わなければならないため、防寒も要りますね。つまりトータルでファッションなど気にしている場合じゃないことになります。ぼくは自転車で気兼ねなく走行するための衣服を自分で揃えました。

するとその格好で向こうから歩いてくると登山家か何かに見えてくる。およそファッション性の欠片もないんだけど、つまりこれは加藤登紀子が言うところの定番を外していることになるのだろうか。あるいは、自分を守るための定番に走りすぎているから全くアート性の欠片もない?

アートとはすなわちその人にしか出せない個性の発露だと思います。加藤登紀子が上手いことを言っているなあとぼくが思ったのは、定番を外すことはモードではないと理解できるからでした。モードは流行だから、個人が流行の発信源になったところで何の得もない。

あるいは個人程度が流行の発信元になろうとする気概は傲慢とさえ言えてしまう。だから個人はあくまでアートの領域に佇むのであり、モードとなることはないのでしょう。

加藤登紀子のコラムはこんな感じで何の文句もないんだけど、コラムが載っているプラットフォームが調子に乗っていて困っている。

これも定番を外していると捉えられるかも知れないけど、紙面は個人じゃない。朝日新聞は最近、ティファニーだかベルサーチだかルイ・ヴィトンだったかガチで忘れちゃったんだけど当該広告を打つ際に最終面を堂々と使うことが増えた。

つまりラテ欄が見つけづらいのです。定番を外していることで、ユーザに不利益を与えている。こんなものは個性じゃない。仮にスポンサーにそう命令されたのだとしても、ユーザの利便性を捨てて得た利益を懐に入れるっていう行為は報道メディアの本懐と言えるのでしょうか?

新聞にこんな個性なんて求めない。ファッションセンスの高い広告が最終面に乗っていて喜ぶ層が存在するなら教えて欲しい。ぼくはたまたま行動範囲で朝日新聞が読めるだけだから大きな声では糾弾しづらいけど、ユーザの利便性を売り渡すみたいな悪魔への魂の売り方を考え直してみてはいかがか。

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