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穢れがないのではなく、その『穢れ』という名の心の澱みを受け入れる

時々、自らの出生を恨みたくなる夜がある。

もう過去には戻れないと分かっておきながら、ぐずぐずと考えてしまう。

もう進まなくてはならないのに、後ろを振り返っては悲しくなる。

私は前に進めなかった。


独りで人生という長い旅路を進もうというのはあまりにも長すぎるのかもしれない。

でも「誰かのお荷物になんてなりたくない」というくだらないプライドを捨てきれなかった私は、長らく安心できる居場所を持たずして彷徨い続けた。

「居場所なんてない」とよく私は呟いていたが、よくよく考えてみれば私が周りに助けを求められなかっただけだった。

頑なに人の善意を拒んだのは、かつて私が『ひとの善意の裏には必ず代償を払わなければならない』という馬鹿げた呪いに縛られ続けていたからだ。

持ち歩かなければならないものがたくさんあったのだ。それがあれば救われると、お守りになると言い聞かせながら、私はたくさんのガラクタをかき集めた城に立て篭もったのだ。


そんな弧城に長らく住んでいた私の元へ、ひょんな理由から訪ねてくる人が現れた。

彼は少し前に知り合った友達だった。

私はたまたま彼と多くの時間を共有するようになった。

あまり他人と一緒に過ごすと疲れてしまう私だけど、彼はなぜか平気だった。

裏表がない。

他人にひどく執着しない。

心の中の澱みがない。

ただひたすらに太陽のような温かさがあった。

何か私に対して求めるわけでもなく、その存在事態を認めてくれるような、そんな感覚。

そして、とても穏やかで優しい。

さわやかで、軽やかで、とてもシンプルだった。

まるで初夏のあの爽やかなそよかぜのようだ。

そういえば、私たちが生まれた頃の風だった。


私はたくさんの余計なことを考えすぎる。

だからといって単純すぎる、重要なときもお馬鹿でい続けるのは自分自身も、周りの人がそうするのも居心地が悪い。

ちょっとめんどくさいんだと思う。

かつて私が愛したかった人がそう言ったように。

かつて母が私にそう言い捨てたように。

私はちょっと繊細すぎるのかもしれない。


だけど彼は少し違った。

私のそういうところがいいんだと、ちょっと熱を込めて話していた。

面倒なのではなく、他人のことをきちんと考えられるのだ、と。

よく生きてきたね、と。

生まれてきてくれてありがとう、と。


私の目をまっすぐ見て話すのだ。思わず目を逸らしてしまいたくなるほど。

私の心のいちばん柔らかいところに土足で踏み込まない。

あったかく抱きしめてくれる。

でも無責任なことは言わない。

ブレない芯の強さがあるのだ。

まるで大樹のように、太く強く根を張ったもの。

その透き通った人間性がとても心地よかった。

そういうひとつひとつが私のガラクタの城の門を開けたのだと思う。

「このひとは、信用してもいいんだ」って。


しかし、それと対比するように私自身は穢れた存在に思えて仕方がない。

私は他人に対して怒りを感じることだってある。

『生まれてこなければよかった』と、さっさと捨てるべき言葉のナイフを、鮮やかな赤の血を滴らせながら手でぎゅうっと握りしめているのだ。

それを自分自身に投げかけては死にたくなってしまう。

ひとの愛し方をよく分かっていない、知らないから傷付けてしまうことだってある。

ぞんざいに扱われることに慣れすぎて、それが当たり前だと感じるぐらいに私の感覚が麻痺している。

だからこの人の隣にいてもいいのかと不安になる。


でもきっとそのことを彼に伝えたら、「なにを言っているの」って笑い飛ばして、ぎゅっと抱きしめてくれるのだろう。

「君以外いらないよ」ってまたあの澄んだ目で何度も伝えてくれるのだろう。

「君は君のままで、ずっと隣にいてくれるだけでいい。」って手をきゅっと握って言うのだろう。


きっと私は彼がいなくても生きてはいける。

でも、今の私の世界には彼が必要なのだ。

その優しさに感謝して、頼っている。

その恩をどうやって返せばいいのだろう。


私はもう何度も生きることを諦めようと思った。

早く終わらせようと思った。

この世界での時を永遠に止めようと決めた。

それでも人生というものは不思議なもので、どんなに絶望していても、時々やわらかな光を見せてくれることがある。

自分自身の心の澱んだところを受け入れたときに、そういう光が入ってくる。


私はあと何回この人の笑顔を隣で見れるのだろう。

もし許されるのなら、私はこの人との時計を永遠に止めたくないと願いながら。




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