自己犠牲の上に成り立つもの
気づいたら、言葉を飲み込んでいた。
何も言わない無言の時にも頭の中では、目まぐるしく思考が働いている。その思考が、表に出ていくタイプの人と内に秘めてしまう人。
私は、表には出ていかない後者のタイプだ。
怒りや悲しみ、傷ついたと感じても、瞬時にそれが外に出ていくことはない。
傷つけられたり、理不尽をぶつけられたりした時でさえ、留まってしまう。
相手のことを思ってしまうのだろうか。
反対意見を言うのがこわいのだろうか。
相手の顔色を伺ってしまうのか。。
どんな理由にしろ、あまりブチ切れたことはない。
腹の中では沸々と煮えたぎるものがあったとしても。
ほんとは、
もっと、怒っていいんだと思う。
傷つけられたと言っていいんだと思う。
あなたの言葉によって、傷つき、涙を流すほど悲しんだと伝えてもいいんだと思う。
後から考えれば、客観的に分かる気がする。
そうしてもいいし、そうするのが普通だったりもするんだろうと。
でも、そうできない自分がいた。
幼い頃からきっと、そうやって、内に溜め込んで生きてきた癖みたいな。
それって、言葉にすると、
自己犠牲している
ということだ。
相手に伝えることに臆病になってしまって、とっさには対応できない。
何も言わず、言えずに黙っていたのは、悲しみに溢れていたからだ。
相手の威圧的な態度や、言葉や口調の強さにも影響されていると思う。
変わりたいと願っていても、そう努力していたとしても、
すぐには変われないものだ。
長年のクセは、少しずつ、改めて向き合っていくしかない。
悲しんでいる自分に気づけたことは、少し進歩したようだ。ショックが大きかったので、わかりやすかったといえばその通りなんだけど。。
諦め半分に流してしまうのではなく、それではダメなんだと思えた。また同じことを繰り返して、自分の首を絞めているのは自分でもあると、気づいた。
変わりたいと思っていても、
そうそうすぐには変われないもの。
時間はかかるもの。
言葉にして伝えなければ、伝わらない。
何も言わなくてもわかってほしい、察してほしい、気づいてほしい、、。
思うだけでは、伝わることはない。
自分が些細な情報から、相手の気持ちを推測し、思いやり、傷つけないようにするからといって、相手もそれができるとは限らない。
自分とは違う人間。
言っても理解してもらえないかもしれない。恐れも不安もあるけど、第一段階としての、伝える努力。
でなければ、私の悲しみは永遠に闇に葬り去られて、なかったものにされてしまう。そのせいで、苦しんできたのは、自分だ。
まずは、自分がその存在を認めてあげること。
その感情を持っていいし、伝えていいと認識すること。
自分をないがしろにしないで。
自分がすべて収めればいいと思わないで。
伝えたら何かは変わるかもしれないと希望を持って。
その先は、相手に任せてもいい。
そこまで責任持たなくていい。
わからないことはこわい。
嫌われたら?逆ギレされたら?暴力をふるわれたら?
どこかでそう考える意識が働いて、ブレーキをかけてしまっている。
でも、それでは生きづらいのだということ。
モヤモヤはいつまでたっても解消されないということ。
猛烈に、人間関係をリセットしたくなる。離れてしまいと、忘れてしまいたいと。
関わりなどない方が、穏やかでいられる。傷つかなくて済むし、済んだことは忘れられる。
そう思ってしまう自分もいる。そうすることもできるけれども、
それでは、立ち止まったままだ。
何も変わらない。
何も言えなくなる引きこもりは、防衛本能なんだと思う。
それでも、このままでは嫌だと思う。
傷つけられて平気な人はいない。
当たり前が麻痺してしまって、わからない人もいるから、事実は伝えた方がいい。
聞き上手は、神でも仏でもなく、
感情ある人間だから傷つけられたら痛いんだと。
自己犠牲という名のものに、成り立っていた人間関係は健全とは言えない。
不健全な関係は、いずれ破綻へと向かう。
そんな人間関係は、厄介なだけで何の意味ももたらさない、苦しむ足かせになるだけだ。
そう、気づけたので、改めていくことにする。
少しずつでも、健全なコミュニケーションを築けるように。
自分を犠牲にしてしまわないように。